2000/4/29 シャブルベンジ(1,430m)-ラマホテル(2,470m)徒歩7時間(標高差)1,040mテント泊
そうこうしている内に空が白み始め、靴をはいてキャンプ地を散策した。下には白い激流が岩にぶつかりながら流れている。河の両側は高い山だ。空の視界は地上の半分くらいか。後から聞くとこの様子を見ていた榊原氏、私に徘徊老人の気があるのではないかと疑ったらしい。いやまだ大丈夫ですよ。

そうこうしているうちスタッフたちがテントから起きだしてくる。我々の6時の起床時にお茶を届けるためにはこの時間から起き出さなければならないわけだ。
6時になるとクマ−ル君が ティ− と言いながら大きなステンレスのカップにミルクティ−を持ってきてくれる。薄い紅茶だ。薄すぎると思ったら、バッグを一つ貰い投げ込む。そうすれば濃いミルク・ティ−が飲める仕掛けだ。

6時半になると熱い湯が かなだらい で運ばれてくる。これで顔を洗う。歯ぶらしと歯磨きは自前のものだ。口をすすぐ水は前日沸騰させておいたのを使うか、ミネラル・ウオ−タ−だ。その辺の水道から出ている水は絶対だめだ。インドのバンガロ−ルでの会議のとき、日本人の半分は下痢にやられたのを思い出しながら、口に入れる水には注意することを心がけた。

やがて朝食。ス−プ、卵の目玉焼きの乗ったナン など。トレッキング中はこの調子で朝があける。我々男は奥さん連がこの程度はやってくれるのであまり有難味を感じないが、奥さん連にとっては天国だろうな などと考えてしまう。中島夫人の妹さんのY嬢は毎食のメニュ−を丹念に記録しておられる。

7時半に今日の目的地ラマ・ホテルに出発。いよいよトレッキングの始まりだ。双眼鏡、ディジタル・カメラ を入れた軽量 のザックを担いで歩き始める。ランタン河の岸を上流に向かって進むのだ.まず橋を渡って対岸にわたり、河に向かって落ち込む崖の斜面 に刻まれた道を進む。地形の関係から道は登り下りの連続だ.出発地と目的地の高度差だけで難易度を判断していたのだが、これは完全な間違いだった。かなり体力を消耗して登っても、その分すぐ下ってしまう。手元の高度計を見ると、かなり何回も登ったつもりが、高度は出発点とほとんど同じだ。対岸には案内書にあったように蜂の巣やら、地すべり跡などあるらしいが、殆ど目に入らない。ただ下を向いてひたすら歩くだけだ。ただ上流に白い神々しい峰が見える。周辺の岩色の山とはけた違いの美しさだ。そうだ あそこに行くのだ。それだけを頼りに歩きつづける。

もう限界と思ったときにバンブ−・ロッジという所に着く。ここで昼食とのこと。宿の前の広場に10畳くらいの青いビニ−ル・シ−トが敷いてある。スタッフが気をきかせてくれたのだ。思わず倒れこんで靴を脱ぐ。クマ−ル君が暖めたパイン・ジュ−スを運んでくれる。これはおいしかった。暖めたほうが身体にはいいらしい。高度計は1,945m。それでも500mくらいは登ったことになる。


昼食後ラマ・ホテルに再び出発する。午前より急坂が続くようだ。出発する前にパサン氏が私のリュックをよこせというので恥も外聞もなくお願いしてしまう。そんなに重くないのだが、登りには結構こたえるのだ。リュックはガイド・アシスタントのシュランジ?が背負ってくれた。彼はガイド助手で英語を話す。結婚していて子供は二人。本職は土木工学の学生か研修生。いまは測量 の勉強中とか。ガイドはアルバイトというわけだ。

道の上の崖には原生林が茂り、所々ネパ−ルの国花の しゃくなげ が赤や白の花を咲かせているが、写 真を取る気にもならない。
この辺の道はシャブルに近いせいか人通りが結構多い。まず我々のようにこれから目的地に向かうトレッカ−がいる。大部分はヨ−ロッパ勢と思われる白人達で2-3人のグル−プが多い。彼らはガイド一人、ポ−タ−2、3人を雇ってトレッキングをしているようだ。
テントと炊事道具は持たず、道筋の所々にあるホテル兼レストランを利用しながら登っていく。女性は短パンかやたらに薄い生地のロング・スカ−ト。気の強そうな人が多い。登りを見上げて深呼吸していると,エクスキュ−スミ−と若い女性に追い抜かれた。邪魔よ。どいてよ。と言う感じ。つきそっている年配のネパ−ル人ガイドのおっさんが笑いながら肩をすくめて見せた。きっとずーっと悩まされているんだろう。
次に出会うのはトレッキングの目的地から下山してくる連中だ。大体杖を両手に持って飛ぶように降りてくる。若い人が多いがたまには私くらいの年齢の夫婦もいる。

それからもちろん現地のポ−タ−達がいる。これには2種類いて、一つは我々のようなトレッカ−の荷物を運ぶ連中と、もう一つは道筋にあるホテルのために荷物を運ぶ連中だ。特に後者は山のような荷を竹籠につめて背にしょって運ぶ。背中だけでなく額に幅広の布を巻き、頭でも荷を支えながら登っていく。現地の人とはいえさすがにこたえるようで、道端で休息しているのを良く見かけた。われわれが買うミネラル・ウオ−タ−やビ−ル、食料品などはこう言う人達が上げてきたものだ。ビ−ルはカトマンズで200ルピ−だが山の上に来ると400ルピ−に跳ね上がる。この姿を見ると無理もないなあと思ってしまう。この辺はチベットに近いので、荷を担いでいる女性の服装もチベット風に変ってくる。

この他に得体の知れない二人組の現地人ともすれ違った。一人は昔の海賊のようにネパ−ルの山刀を腹帯に斜めにさしている。山刀といっても三日月型の刃を鋭く磨き上げたもので刃渡り20-30cmもある。荷物も運んでいないし目つきもなんとなく怪しい。なにごともなくすれ違ったが、こんなのと一対一で山中で出会ったら怖いだろうなと思った。出発前にシャブルでみた 行方不明の青年の情報に20万ルピ−の賞金 という英国大使館のビラを思い出してしまった。
とにかくきついきつい登りを何回か超え、今日の宿泊地ラマ・ホテルに16時頃に到着した。高度計は2410mをさしている。やはりシャブルから1,000mくらい登ったことになる。きついはずだ。その何倍かは登ったのだから。


日出子記
 ラマ・ホテルには名前通りトレッカ−のためのホテルが10軒ほどある。ホテルといっても山小屋かロッヂのようなものだ。現地語ではバッティとも呼ぶらしい。時々ホテルの間の細道を首にベルをぶらさげた牛が通 る。カランカランとのんびりした音が聞こえる。
 次男のY テントの出入りに登山靴を脱ぐの面倒なので つっかけ が欲しいという。ホテルには売店もあり、1メ−トル四方の窓がショウ・ウインドウになっている。水、コ−ラ、ビスケット、トイレット・ペ−パ−などを売っている。売店の人が履いている つっかけ をさしてこれと同じものが欲しい というが ないという。Y 残念そうな顏。その店のおばさん ベッドの下を捜して 使い古したサンダルを引っ張りだしてきて これでよいか という身振り。なんと200ルピ−も払って中古のサンダルを買う。準備不足なんだよ。まったく。
  Y サンダルを水道で洗ってうれしそうに履きかえる。水道といったって 蛇口などはない。黒いゴム・ホ−スが地面 に投げ出してあって、その端から水が出ているだけだ。その水が何処からきているのかは良くわからない。飲んでいけないのだけは確かだ。


夕食はホテルの一室を借りてとる。トイレもホテルのトルコ式を使う。少なくとも黄色のテントのは使わずに済む。電気などはもちろん来ていないので、明かりは石油ランプだ。石油ランプといってもあのホヤのあるやつでなく、石油を霧状にしてガラスウ−ルのマントルに吹き付け、高温で燃やすタイプだ。白い光で結構明るいし暖もとれる。いつものような楽しい夕食の後9時に就寝。夜中に目が醒めたのでトイレに行った後、貰っておいた睡眠薬とウイスキ−を一口のみシュラ−フへ。今日のバテは昨夜の睡眠不足がたたっているとおもったので。

日出子記
 ここでホテル(バッティ)の様子を書いておく。床は土間で、壁は石積み、小さな窓が四方にある。内部は8畳程の部屋が二つ。一つは台所兼寝室か。中央に土をこねて作った 3段の かまど がある。
燃料はもちろん薪だ。かまどの下の段には煮たき用のなべ。その上の段もなべがはめてある。一番上は煙突が中央から突き出しているが、そのまわりは何かを乾かしたりするのに便利そうだ。かまど の横には大きなベッドがありフトンがかけてある。大人三人無理すれば寝れそうだ。ベッドの上にはちゃんと仏壇もある。この辺夜になると結構冷え込むので暖房がいるのだ。もっとも薪は結構高いそうだが。
  もう一つの部屋は食堂だ。壁にそってぐるりと広めのベンチが作りつけになっている。厚めの絨毯がひいてある。中央にはテ−ブルとスト−ルが幾つか。全部で20人くらいは食事ができる。食事の後はこのベンチでトレッカ−や家族が寝るのだ。ホテルといってもこれだけだ。この二部屋だけでお客も泊め家族も住むのだ。水やトイレは外のを利用する。まさにこれが住宅の原点だと、やたらに贅沢になった日本の住まいを反省させられた。


実に素朴なホテルだが、そのオウナ−になれるだけでも、この辺では成功者らしい。ポ−タ−や出稼ぎで苦労してためたお金でホテルを作ったのだ。

2000/4/30 ラマホテル(2,470m)-ランタン(3,307m) 徒歩7時間(標高差)837m テント泊
ランタンから上流をのぞむ今朝は珍しくクマ−ル君の ティ− で目をさました。朝食後次の目的地ランタンに出発。標高差は800mあまり。この頃になるともうあまりまわりの景色も目に入らなくなる。ただ河の両岸の崖の傾斜がゆるくなり全体に視界が開けてくる感じだ。もちろん上流には例の神々しい白い山々が見えている。10時15分ダバラ着。2,880m。ここで昼食。12時半頃 出発。15時40分 ランタン着。3,295m。

日出子記
 この頃になると 榊原氏の指導もあり やっと 歩き のこつが分かってきた。4つのパタ−ンがある。 1つめは 下り坂 または平坦な道の場合で 吐く息を少し早めにして足は動くにまかせる。 2つめはゆるやかな登りの場合で 吐く息で一歩 吸う息で一歩 歩幅は30センチ位 。3つめ は登り坂の場合で 呼吸法は同じだが 歩幅を小さくする。後ろのつま先と前のかかと がくっつく位 。4つめは急な登りで 吐く息と吸う息で一歩。歩幅は殆ど足踏み状態。道の勾配に応じてこの4つのパタ−ンを繰り返し、息が苦しくならないように神経を集中して歩く。まわりの景色どころではない。杖は持ちたくなかったのだが、足の筋力がなくなっていて、下り坂では杖なしでは動きがとれない。始めは杖をつくタイミングに困ったが、だんだん慣れてきて気にならなくなってきた。1時間も歩いていると頭はからっぽ。自分が酸素を取りこんで、それを使って足を動かす機械になったような感じだ。こんな思いを4時間もした後に目にした白く輝く山々。感動しないわけがない。


 この日は足が上がらなくて常に最後尾になる。こう言う場合でもパサン氏なり、榊原氏なりが必ずそばについていてくれる。立ち止まるとパサン氏は エヘン・エヘンと咳払いするのでそれに促されて歩き出す。
この位の高度になるとそろそろ高山病の兆候も現れ始める。まず頭痛だ。次に顔がむくみだす。私自身にはこの症状は現われなかったが、何人かは頭痛を訴え始めていた。ランタンにつく直前バテバテで歩いていると、道端で休んでいた外人のおばさんが ユ−・オルモスト・ゼヤ とはげましてくれた。アイ・アム・ハッピ−とかもぞもぞ答えながらやっと到着。
ここの地名通りこの辺の最高峰ランタン・リルンが河筋に直角方向に見えるはずだが、間にある小山に遮られて頭の部分しか顔をのぞかせていない。今夜もホテルの一室を借りての夕食。ホテルといっても土間で壁は石を積み上げただけで、漆喰をぬ って補強すらしていない。

部屋には白人の先客がいて、Y ホヘア・ユ-・フロ−ム?などと話かける。スイスから来た3人組で一人は若い女性。頭を男刈りにしている。アイライク スシ などと愛想をふりまく。連中はここのホテルに泊まり、夕食を注文してそれを待っているところらしい。ところがこの夕食がいつまでたっても届かないのだ。一時間たち、二時間たっても出来てこない。ホテルのおばちゃん達が かまど に火をたき、なにやら炒める音は聞こえるのだが、いつまでたっても来ない。こちらがクマ−ル君の持ってきた料理で夕食を済ませた後になってもまだこない。スイス人の連中待ちくたびれて、トランプを始めてしまった。料理はどうも穀物を粉に引くところから始めているようなのだ。床においた擂り鉢で何か擂っている様子だった。N子に お前好みだよなあ などと皮肉る。この人は餃子も皮から自分で作らないと気が済まない人なのだ。

 こちらはパクパク食べるし、向こうは腹をすかせトランプという状態でなんとなく気まずい雰囲気になってしまった。それで中島氏が日本酒と余った工ピセンのようなものを差し入れた。我々が寝る頃になってなにやらが三皿やっと届いた。何かカレーライスのようなものだった。こういうわけでホテル泊まりのトレッキングも楽じゃないということが分かる。
 
この日あたりから、インド・ネパ−ルに来る日本人の大半がやられる下痢に我がグル−プも襲われ始めた。まず最初は我が家の次男のYだ。今日の昼くらいから腹の具合が悪い。水のような下痢にしょっちゅう襲われるという。どこかで飲んだコ−ラが悪いという。とにかく今夜は母の日出子とテントを同じにしようと言うことで、Yと日出子 私とN子 と組み合わせを変える。いやいや大変なことになってきたぞ。




Copyright (C) 2007 FUJI INTERNATl0NAL TRAVEL SERVICE, LTD. All Rights Reserved.