六日目
ジョムソム=マルファ=カロパニ
ジョムソムは街道にそった長い町だ。今朝もポカラからの飛行機が轟音を響かせて着陸している。町外れには大きな農園があり、果樹園になっている。ここは日本人の援助で作られたということだ。まだまだ拡張しているようで、歩いても歩いても緑の木が続く。確か私財を投じてネパ−ルで米作を教えた新潟の人の話をテレビで見たことがあるが、ここのことだったかもしれない。道には電柱がたっており電線も張られている。電気が来ているのだ。道に投げ出してある電線のコイルを見ると白い色だ。銅線ではなくアルミの裸線を使っている。理由はよく分からないが軽いのでロバでもって来やすいからか。
果樹園の緑が途切れてしばらく歩くと別の町マルファにつく。入り口にはアーチが飾ってある。入り口の横は大きな畑で麦が青々と茂っている。風に吹かれてそよぐ青い麦畑は何処で見ても美しい。思い出すのは昔のドイツ映画の未完成交響曲。あの麦畑の映像の美しさはいまだに記憶に残っている。石を敷き詰めた狭い歩道の両側には白い壁の家がぎっしりと続いている。
殆どは何かを売っている店だ。確かにこの町は美しい。多美子夫人の句「町に入る 白い家並み 石畳」はマルファのことだ。店の一軒に入り名物のアップル・パイを食べる。ウ−ンかなり素朴な味だ。中はリンゴの煮たのが入っているがシナモンとかバタ−は入っていないようだ。日出子の作るやつの方がおいしいな。中島家の人々は日本に電話をかけに行く。一通話千円取られたそうだ。このあたりから荷物を運ぶロバの群れとひっきりなしにすれ違う。二十頭、大きい群れだと五十頭くらい。先頭のロバは満艦飾だ。派手な衣装。おまけに角のように頭に棒を二本つけ旗をなびかせ チリンチリンと首の鈴がなる。大きな悲しげな目をしている。
「荷物背負う ロバの瞳に 愁いあり」
榊原氏の句だ。 ここを入っていくとダウラギリへの登山道と榊原氏が教えてくれる。由美さんの詠んだ
「痛恨の 思いがかえる マルファかな」
はこれと友人の遭難のエピソ−ドが下地にあるのだ。ここまでは楽しいトレッキングだったがこのあとは難業苦行だった。カリガンダキの河原をただひたすら歩く。道はどういうわけか、河原を何度も横断する。こちら岸からあちら岸へと。小さい流れには丸太の橋がかかっている。それに強烈な向かい風。雨もパラパラ降ってくる。目を開いておられない。皆さん下をむいてただひたすら歩く。
「河原風 飛ばされたいよ どこまでも」
は奈々子の作だ。ちょっとニヒルかな。 岸辺に村があると道はそちらに登っていく。平均すれば下りだがこういう登りも結構あるのだ。村は高いところに作ってある。雨季の洪水に備えてのことだろう。また河原、強烈な風。また登り これの繰り返しだった。
「やせ犬や 広い河原を 何処へ行く」
は日出子。確かに向こう岸に豆のように小さく見える犬がうろうろしていた。
今日の宿泊地はラルジュンという村のはずだったが、それを横目にみて更に進む。皆さん段々と不機嫌になつてくる。ドルちゃんあと何分。声がとがっている。あと三十分ドルちゃんが答える。三十分歩いてまた聞くと同じ答えだ。一同ますます不機嫌になる。これを何回か繰り返して、やっとカロパニの村につく。今日は十時間くらい歩いたかしら。くたびれた。皆さん今日はよくがんばりましたと榊原氏。一同はムッと無言。それでも夕食後は俳句会。題をだしては各々俳句を詠んで披露するのだ。上のはそのときに作った句の一部だ。
七日目
カロパニ=ガーサ
今日も四時起きで山の夜明けを撮る。昨日頑張ったお陰で今日のトレッキングは午前中でおしまい。ガサという村のバッティの中庭にテントを張る。中島氏はここの子供にサッカ−ボ−ルをプレゼントする。お昼は日本から持ち込んだウドンだ。台所をのぞくと中島氏が大きな釜でウドンを茹でている。傍でドルちゃんが大根を下ろしている。やがてウドンが茹であがる。大根おろしに醤油をたらして、ウドンをつけて食べるのだがこれがおいしい。だしなど使わなくても大根には旨みの成分があるのだろうか。今日の午後は皆さんネパ−ルいろはカルタを作るというので私はテントで寝ることにする。目をさましたらカルタができあがっていた。皆さん絵心があって中々よい出来だ。
八日目
ガーサ=タトパニ
ネパ−ルカルタの一つ「タトは熱いでパニは水」から分かるように今日の目的地タトパニには温泉が出る。ムクチナ−トで冷たいシャワ−を浴びたきりだから早く一風呂浴びたい。というわけでタトパニに急ぐ。
ガーサからタトパニには千メ−トル近く落ち込んでいる。確かこのあたりがヒマヤラの断層になっているはずだ。三十年以上も前に日本の地質学者が入って調査をしたところだ。岩に目印の金属棒を打ち込み高さを測量し、何年かあとにまた来て土地の隆起を測ったらしい。金属棒が盗まれてしまって測定がおじゃんになったこともあったようだ。
本を調べてみるとネパ−ルには随分昔から日本人が入り込んでいる。まず登山家。地質学者。農学者。文化人類学者。民俗学者。写真家。もっとも頭のさがるのはお医者さんだ。もよりの町から歩いて一週間もかかるところに診療所を建てて病気の治療や公衆衛生の仕事にあたっている。こういう三十年以上も前に書かれた本を読むと、ネパ−ルも随分と進歩したのだ。今井通子さんのダウラギリ遠征のときは車の通れる道はないのでポカラから歩いて山に入ったとある。何百人のポ−タ−を連れて。河には橋などはなくロ−プ一本が渡してあるだけだったそうだ。これを一人づつ滑車にぶら下がったバケツみたいなもので渡ったらしい。イギリスのエベレスト隊もカトマンズからキャラバンを組んで歩いた。
それにしても文明の利器はすごい。私たちが四日歩いて半分も来ていない距離を飛行機はわずか二十分で飛んでしまう。問題はお金だ。航空運賃が高すぎて地元の人の生活物資やその他もろもろの必要物資は運べないのだ。こういう地勢だからどこへでもというわけにはいかないだろうが。
河に沿って歩く。もう河原ではなく河の上の道だ。両側は高い崖だ。後ろを振り返るとダゥラギリの白い姿が見える。このあたりに来ると村が繋がっていて山奥ではなく、人里に近づいたという感じだ。崖から細いが恐ろしく高い滝が見えてくる。タトパニに到着だ。
村はずれの家の大きな庭に今夜のテントを設営する。裏の小屋には水牛が二匹。荷物を整理して早速温泉に出かける。河原におりてちょっと歩くとありました温泉が。五メ−トル四方くらいのコンクリ−ト造り。傍には売店がありビ−ルなど飲み物を売っている。ポ−タブルのステレオからは音楽が流れている。これはプ−ルというより昔田舎にあった肥溜めに似ている。雰囲気は日本の観光地にある温泉そっくりだ。プ−ルのふちにはビ−ル片手の白人達が座っている。一同水着に着替えて、脇のシャワ−で体を洗ってプ−ルに入る。
わが女性群はみなステキな水着だ。このシャワ−ではちょっとトラブルがあった。インド人とおぼしき女性が二つしかないシャワ−のひとつを占領して離さないのだ。体を流すにしては異常に長い。なにか宗教的な儀式を行っているようだった。荷物はまとめてドルちゃんが見張ってくれている。ここは泥棒が多いのだ。お湯は結構熱い。隅の湧き口から熱い湯が流れ込んでいる。女性群は気押されたのかプ−ルの真ん中で円陣を組んでいる。私も中島氏も腹が出ているが榊原氏は締まっている。週二回トレ−ニングにいっているとか。さすが現役の登山家だ。サッパリしてプ−ルを後にする。このサッパリ感は日本人独特のものかしら。トレッキングも終わりに近づいた。今夜もシェルパたちが踊りのパ−ティをやることだろう。
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