5月1日 パグディン2,610m=ナムチェ・バザ−ル3,440m
朝五時おきの六時朝食。七時出発が大体の日課になった。山の天気は朝は晴れていることが多く、昼くらいから雲が出てきて夕方には雨になったりすることが多い。だからできるだけ早く行動したほうがよいのだ。景色もよいし雨具など使わなくてすむ。私は皆さんより一足早く四時頃起きだす。外は真っ暗で星や山の写真を撮る。

午前中の歩きは比較的楽だった。ジョサレまで歩いて昼食。十二時に出発してチェック・ポストを通るとサガルマ−タ国立公園だ。橋を渡っていよいよ登りに入る。「上を見ないで ゆっくりと、でも決して立ち止まらないように」と言われる。他の人を気にしないでとデビさん。カメラバッグとリュックはサブガイドが持ってくれる。サブの一人は大学生のアルバイトで日本人といっても分からない顔つき。柔和で人好きのする顔だ。もう一人は私についてくれていて躓いたりするとさっと支えてくれる。こちらはまったくの無表情。
息をきらして立ち止まっていると穴の開くほど人の顔を見つめている。三〜四十分歩いては小休止を繰り返す。スティックを両手に持って上の石段につきたてその反動を利用して登るとすこしは楽になった。でもほかの人からは少しづつ遅れる。やはり年の差か、それとも煙草がいけないのか。肺活量が標準以下でいつも人間ドックでやり直しさせられるのだ。

こちらはハアハアいいながら登るのをよそ目に土地の人たちは竹篭に荷をいっぱい入れて足軽く抜いていく。ここは生活道路だから、我々のような遊びできているトレッカ−は道を譲ることになっている。今回のトレックで見た一番すごい荷物は角材だ。十センチ角くらいで長さが三メ−トルもあろうかという角材を六本束ねて背中に背負って山を登るのだ。しかしこれはつらい労働だなあ。おまけに十歳くらいの子供まで角材を背負っている。
さすがに三本程度ではあるが。とにかく車の通れる道がないので、人力か動物にたよるしか運搬の手段がないのだ。

どこかの区間だったか小学校の生徒が四、五人我々の前となり後ろとなり遊びながら家に帰っていった。登校時間は一、二時間は当たり前らしい。しかも道は山あり谷ありなのです。こうやって小さいときから鍛えられてあの有名なシェルパ族となるのだろうか。ランタン渓谷やジョムソン街道に比べるとこのエベレスト街道はリッチな感じだ。新しい家も建設中だしバッティも垢抜けたきれいなつくりが多い。シェルパの仕事で経済的にも豊かになっているようだ。でもねえ、人間の労働力だけじゃ稼げるお金は限られている。ここらの河は結構高低差があるから、ダムを造って発電所を作ったらどうでしょう。電気があれば工業を起こせるし、余った電気はインドや中国に売ったらいい。と私。ネパ−ルの人はあまりそういうことは考えないんです。むにゃむにゃ。とデビさん。まあこれは夢物語かしら。ヒマラヤに遊びに来ている人は自然破壊とか騒ぐだろうが、土地の人の生活が一番大事なのではないだろうか。それともこの辺の自然は現代のテクノロジ−を寄せ付けないほど厳しいのか。山にトンネルを作れば随分と近道もできるのに。ネパ−ルにはトンネルはありません。とデビさん。彼日本で新幹線に乗ったとき前方に山が見えたので当然坂道になると思ったらトンネルに入ってびっくりしたらしい。

とにかく苦しい登りが続きもう限界と思ったとき、ナムチェの青い家並みが目に入った。しかしここもすごいところだな。すり鉢のような斜面に段々畑のように地面を削りそこにバッティや人家が建てられている。前方は谷に開けているが霧がかかっていて山は見えない。町に入るがここから今日の宿まではかなりある。道の両側にはみやげ物店が多数。ヤスイヨ、イラシテマセなどと声がかかる。いらっしゃいませでしょと言ったら直ぐ復唱。イラッシャマセ。語学上達の極意は慾にあり。

町が斜面に作られている上、我々の宿はかなり高い位置なので、またまた急な階段を何回か登ってやっと宿に倒れこむ。
ゾッキョはラバにくらべて足が遅いらしく、まだテントは出来ていない。バッティの二階でテントの設営を待つ。二階は食堂兼集会場か。窓際にベンチが造りつけ、その前に細長い机が置いてある。アメリン人かドイツ人らしい男がこちらには目もくれずに本をよんでいる。ちょっと煙草を吸いにくい雰囲気だが、一服。

テントが設営されたので倒れこんでウトウトする。高度のせいかそれとも歩いているとき水をのみすぎたせいか、全く食欲がなくなってしまった。夕食もそこそこシュラ−フに入って寝てしまう。寝る前にデビさんから注意。七時半以降は外出禁止。懐中電灯はテントの中だけ使用可。外では振り回さず地面を照らすだけ。これじゃ事実上の戒厳令だ。軍のお達しらしい。

夜中に目がさめたが睡眠薬をウイスキ−で流し込んでまた寝る。外は寒くないし、シュラーフに入るといい気持ちだ。明日は一日中ナムチェでゆっくり出来ると思ったら、この上のホテル・エベレスト・ビュ−に行くという。しかも朝五時半出発だ。やれやれ。

5月2日 ナムチェ3,440m=ホテル・エベレスト・ビュ−3,800m=ナムチェ
朝四時ごろ起床。テントからのぞくと快晴だ。星が見える。しかも目の前には城壁のような白い山が。コンデ・リという六千m級の山だがのしかかるようだ。村には自家発電があるらしく黄色いナトリウム灯が家並みを照らしている。中々絵になる景色だ。夜明けまで時間があるのでカメラを三脚に取り付けて長時間露出で写 真をとる。

きつい登りの後やっと着いたホテル・エベレスト・ビュ −は立派な建物だ。日本の方が作ったとのこと。ここは宿泊していなくてもテラスで景色を見ることが出来る。飲み物を頼んでテラスへ出る。ここからの景色は素晴らしい。目の前にはタムセルク。左前方にはアマ・ダブラム。更に左の奥にはエベレストが黒い頭を出している。下の部分は張り出しているロ−ツェで隠されている。天気は快晴で雲ひとつない。今回のトレックでは世界最高峰のエベレストを見るのが一つの目的だったから皆さん大いに感激している。スケッチブックをだして絵を描き始めた。私もカメラやビデオで付近の山やらエベレストを撮る。この写 真だと頂上付近だけに少し雲が出ているが、ここにいた二時間の間に雲は見えている斜面 一面に広がった。雲の様子から、エベレスト頂上付近は猛烈な風、おそらくジェット気流が吹き荒れ、あっという間にガスッてしまったわけだ。

高山の天気がいかに早く変わるかがよく分かる。隣のロ−ツェもほぼ同じたが、6800mのアマ・ダブラムでは頂上付近に申し訳程度に雲が出ているだけだ。やはり八千メ−トル級の山は違うなと思った。きた道を引き返して昼前にナムチェに着く。ヘリポ−トも見えたので、カトマンズかルクラからここへはヘリで来ることも出来る。ただいきなりヘリで3800mに来ると高山病になるらしい。やはりハァハァいいながらゆっくり登らないといけないようだ。今日のホテル行きもナムチェから更に四百メ−トル登ってまた下りるという高度順応の意味もあったようだ。それにしても疲れた。午後はテントでぐっすり眠る。ほかの連中は下の商店街に買い物に行く。帰りの階段の登りを考えただけでもウンザリなので一緒に行くのは止める。

5月3日 ナムチェ・バザ−ル3,440m=タンボチェ3,860m
今日も朝早く出発。石の階段を登り町の外へ。途中までは昨日と同じ道だがやがて山腹に刻まれた緩やかな長い道を歩く。昨日ホテルから明日はあそこへ行きますと教えてくれたのがタンボチェ僧院。はるか遠くのなだらかな山の上に建物が小さく見えていた。地形からするとどうも河床まで下りてあの山にまた登るらしい。二時間も歩いただろうか。案の定道は急な下りになる。この辺はしゃくなげの木が多く盛りは過ぎているようだが赤い花が美しい。やがて河床につく。橋を渡って昼食となる。もうこれ以上歩けないよ。私はここで明日まで皆がくるまで待つと皆にダダをこねる。そこのベンチで少し寝たらということで二、三十分ウトウトする。これが効いたのか、午後の歩きに出発する気分になった。

初めはジグザグの急坂。やがて一本道の登り坂となる。なるべく上を見ないように歩いたが、上の方に木が見えなくなり空が開けてきた。頂上近くになったのだ。エベレストのベ−ス・キャンプに行くにはこの道以外にないそうだ。エベレスト登山隊は少なくとも五トン、多いグル−プは五十トンも荷物を運ぶそうで、皆この道を通 ったのだ。ポ−タ−の列が五、六キロにもなったそうでさぞ壮観だったことだろう。なんと言う登山隊の執念だ。私だったらこんな計画は最初から諦めている。

大きな石の門をくぐると目の前にはタンボチェ僧院が。赤い屋根と窓枠が美しい。ラマ教の僧院だがチベットからこちらに亡命してきたらしい。脇には大きな広場がありそれを取り囲むようにバッティや炊事場などが並んでいる。
このあたりは雪男(イエティ)伝説で有名なところで、雪男の頭皮がこの僧院にはあったらしい。盗難に遭ったということで今は見ることは出来ない。雪男の存在は疑わしいが、山岳写真家の白川氏もシェルパから昨日見たという話を聞き、チュクン氷河で一週間粘ったらしい。結局写真はとれずじまいだった。また今井通子さんのダウラギリ登山記「私のヒマラヤ」にはイェティのものと称する足跡の写真が載っている。これは大人のものにしては小さく子供イエティのものだという。今井さんは真偽のほどについては述べていないが、普通の人にはまず近づけない場所でシェルパが見つけて今井さんを呼んだのだそうだ。

科学的な調査としてはあのヒラリ−さんが雪男の頭皮と称するものを六週間だけ借り出し、シカゴ、パリ、ロンドンの大学で鑑定してもらった例がある。これによると頭皮は珍しいカモシカのものと結論された。このことはコリン・ウイルソンの「世界不思議百科」にも載っている。これが事実だとすれば カモシカの頭皮を雪男のものだとでっち上げた人がいるはずである。恐らく僧院のインテリの誰かであろう。その理由は不明だが或いは人寄せだったかもしれない。現にヒラリ−さんはこの鑑定の行われる前に雪男探査の探検隊を組織して山登りもやっている。こういう探検隊にはスポンサ−も付きやすいという登山隊の深慮遠謀もあったろう。また僧院では以前は観覧科を取って見せていたそうだから単なる小遣い稼ぎだったかもしれない。

今井さんの例は、推理小説の常道に従えば、足跡を見つけたというシェルパが怪しい。彼が意識的に何かの手段で足跡をつけたのではないか。理由は仕事欲しさだったかもしれないし、ヒマラヤにロマンを残したかったからかもしれない。確かにシェルパは純朴で献身的かも知れないが、食べてゆくためにいろんなことを考えだしても責めることは出来ないだろう。というわけで私自身は雪男の存在には否定的である。

わき道にそれたがタンボチェ僧院についてからはテントで寝たきりになった。食欲はないし下し気味だ。それも細菌性のやつではなく胃腸がストをおこして、食べたものを消化するのを拒否している感じだ。テントにウドンやおかゆを差し入れてもらってようやく胃に何かを入れる。梅干とか塩昆布でおかゆもおいしく食べられた。 やはり日本人だなと実感した。とにかく最終目的地についたのでやれやれと言うことだ。明日は明日の風が吹くというわけで早くから眠りにつく。夜中に大きな生き物がテントのまわりをうろついている気配がした。雪男かと思って顔を出したら餌あさりのゾッキョだった。




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