5月4日 |
タンボチェ3,860m=モンジョ2,840m |
今朝も四時おき。晴れて星が見える。さそり座、白鳥座など夏の星座がきれいにに見えている。ここには電気が来ていないので邪魔になる電灯の光はない。ただどういうわけかキッチン・ボ−イが起き出していて、ト−チ・ランプがまぶしい。月もでているのでまあいいやと言うわけで山や星の写真をとりまくる。このカシオのデジタル・カメラは一分の長時間露出が可能なので三脚にカメラをつけるといろんな写真が撮れるのだ。月に照らされたタムセルク、日の出の瞬間のアマ・ダブラムなど何枚かおもしろい写真がとれた。星座の写真は一部切れてしまったので明日もう一度トライしてみよう。
今日は更に奥のパンボチェ往復の予定だつたが、初日のルクラ着陸失敗のせいで日程を切り上げて山を下る。ナムチェを通ってジョサレに泊まる予定だ。 下りだから体力的には楽だが、急な石段で転ばないように神経を使いながら歩く。一度通った道なのであまり印象は残っていないが、記憶に残っているのは先導犬のクロだ。 昼飯の残りをやったら我々についてくる。ついてくるというより我々の前を先導するように歩く。メス犬で子供もいたが、こちらはお留守番。次の村に着くと子犬が甘えかかってくる。彼女の別の子供でこの村に貰われてきたらしい。別の村ではまた別の子犬がというわけで、我々トレッカ−について引き離された子犬達に会いにきたらしい。このクロ後になり先になりで殆ど半日行程我々と一緒だった。最後の宿泊地で見えなくなったので何処に行ったのと聞いたら、登りの白人トレッカ−について帰っていったそうだ。楽しい生活だなあ。これこそ犬の本当の暮らしだ。うちのミミも今ごろはホテルとはいうものの檻に閉じこめられていることだろう。うちにいるときだって自由なのは庭に放されているときだけだ。
ジョサレは何かさびれた感じのところで、いいキャンプ場がないということでその先のモンジョにテントを張ることになる。このモンジョという名前は三人寄れば文殊の知恵の文殊からきているのかな。しんがりの人に付いてくれるデビさん今日は見当たらない。おかしいなと思ったらプ−ちゃんが風邪気味とのことでそちらについているらしい。それに榊原さんもエスコ−トだ。彼は高山病になつた八十二キロの仲間を背負って山から下ろしたことがあるそうだからこういうときには実に心強い。
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5月5日 |
モンジョ−ルクラ |
今朝も朝早く起きて星の写真を撮る。この村にも電気がきていないので真っ暗だ。山のシルエットの上にさそり座が奇麗に見えている。
最後の目的地ルクラに出発。しばらくして飛行機の爆音が聞こえた。ああやっと文明に近づいたとホッとした。最後の登りもどうやら乗り切ってルクラ到着。行きにお昼を食べたバッティで夕食兼お別れパ−ティ。夕食後トレックのスタッフ全員が集まってまずお礼の金一封を各々に渡す。その後はリ−シャム・ピリリを歌ったり、それに合せて踊ったり。女性は皆引っ張り出された。愉快でなかったのはパ−ティの最中銃を持った兵隊が三人上がってきてずっと見ていたことだ。単なる暇つぶしなのか監視しているのか分からないので不気味だった。店の人がコ−ラをやって追い返そうとしたのだが一人はずっと頑張っている。せっかくの踊りも一寸ヒステリックになってしまった。ルクラも戒厳令下にあるようなので上を向いて歩こうを歌って七時半ごろパ−ティはお開きとなった。
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5月6日 |
ルクラ=カトマンズ=ナガルコット |
ルクラからの飛行機も無事出発。カトマンズ空港からホテル・サンセット・ビュ−へ。
お昼はホテルの蕎麦レストランで。午後からはバスでナガルコットのホテル、ヒマラヤ・クラブへ。ナガルコットからはヒマラヤの遠望が楽しめるということだ。二時間ほどのドライブで丘の上のホテルについた。立派なホテルだがフロントまで高い階段だ。今度のトレッキングでやや階段恐怖症になってしまった。食堂は百八十度の展望が楽しめるという総ガラス張り。但し今日は曇っていて山脈は霧に隠されている。格式の高そうなホテルだが、実質的なサ−ビスはあまりよくない。久しぶりに熱いお風呂に入ろうとしたが、出てくるのはぬるま湯ばかり。夕食は中華のバイキングだが、チャ−ハンや焼き蕎麦の味はもう一つ。ただネパ−ル音楽の実演は中々のものだった。
食事の席でプ−ちゃんの発案で日出子の還暦のお祝い。赤いショ−ルと寄せ書きがプレゼントされた。女性の六十歳はなかなか微妙で家でお祝いしようかと迷ったが結局何もしなかったのだ。久しぶりにベッドでぐっすりと眠る。
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5月7日 |
ナガルコット=チャング・ナラヤン=カトマンズ |
朝早く起きて遠くに見えるヒマラヤのビデオをとる。今朝は霧が晴れて山が見える。多分一昨年に行ったランタン方面の山のはずだ。コーヒ−は六時から朝食は六時半からということなので居合わせた連中とコ−ヒ−を飲む。
暇になったので地下のショップに行ってみる。山の写真集でもないかと本のセクションをみていたら、中年の店員が、なにを探している「カ−マ・ス−トラ」かと声をかけてきた。こればかりは万国共通だものなあ。これですっかり打ち解けてしまった。展示してあるルビ−やサファイアの見分け方など教えてもらったが本物は結構高い。ジルコンは奇麗だがこちらはやたらに安い。これは人工だからと店員。孔雀の窓の模型は七百五十ルピ−。去年バクタプ−ルで見たときは六十ドルとかいっていたから大分安い。これはこことここで張り合わせてあるからと店員が教えてくれる。なかなか正直なのだ。今はお金がないから後で来るといって引き上げる。
実際あとでこの模型を買ってきた。今はうちの居間に飾ってある。
やがてバスでカトマンズに帰るが途中の古いお寺 チャング・ナラヤンを見物に行く。ここは去年行ったバクタプ−ルのいわば分院と言った場所らしい。確かにユネスコの世界遺産というプレ−トが埋め込んである。世界遺産か知れないがここの建物の殆どには人が住んでいる。「生活感がありますね」と多美子夫人。立派な舗道だが取り入れた麦が道の半分くらいを占領して干してある。道の真ん中では風を利用して籾殻を分けているおばさんがいる。おみこしがしまってある場所にも麦わらが積んである。
というわけでここは生活の場所だ。本堂は修復中だがそれほどお金をかけているとは思えない。危なっかしい足場は竹で組んである。それでも大工さんが建物の一部と思われる部品を作っていた。ユネスコは遺産に指定するだけでお金は出さないのかしら。これじゃ指定されるだけ迷惑千番だ。本堂の裏手ではなにやら集会が。覗いてみると着飾った少女達が床に座っている。
デビさんによるとこの娘の結婚式だそうだ。但し相手は果物。日本の七五三みたいなものかしら。相手が果物というのは娘が一生食いはぐれないようにという親の願いが込められているのかも知れない。帰りがけにCDを二枚買う。チベット音楽と映画キャラバンのスクリ−ン・ミュ−ジック。
カトマンズに戻りコスモに挨拶のあと菊やで日本食。その後皆さんはシャングリラ・ホテルでデザ−ト。その後はタメル地区でのシヨッピング。お定まりのコ−スだ。
ホテルの図書館で 深田久弥の「ヒマラヤの高峰」を見つけたので拾い読みする。ヒマラヤ地区の高山の登山記録。結構面白い。たとえば あのアマ・ラブダムの初登頂は1960年。エベレストに遅れること7年だ。登ったのはヒラリ−を隊長とする雪男学術探検隊の隊員二名。その前の年に試みた二人はとうとう帰ってこなかった とある。八千メ−トル級十四座が征服されたあとは、高い山よりは難しい山を選んで登るようになったとある。
これで今回のトレッキングは終了。三回のトレッキングの中で山の展望という点では今回が一番だった。登りの苦しさはランタンの方がきつかったような気がする。これはやはり高度の差によるものだろう。
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