20日余りの旅は瞬く間に終った。
いま、ひさしぶりのネパールは首都カトマンドゥの雑踏に身を委ねている。桜の開花を聞きながら関空から出掛けたのは先月17日。小生70才とちょっと。目指すのはクーンブ山群の東端を形成するカンチェンジュンガ。カンチェンジュンガとは、カン(雪山)・チュン(大きい)・ジュ(宝)・ンガ(5)つまり5つの宝庫をもつ偉大な雪山との意とか。一時は世界最高峰と呼ばれた第山群である。

けき道を辿り着いて見る事の出来た氷雪の峰々。その道はエヴェレスト街道と展望台ほどの人気は無く、真に山好きの人や写真の愛好家が訪れる正に秘境の名に恥じないルートである。
雪煙舞う北壁。逆光に輝く氷河.ヒマラヤ襞に刻み込まれた無名峰。怪峰ジャヌー。その特異な山容は忘れられぬ面影を我々に刻み込む。その北壁第一登は山岳同士会の13人であるのは、誇りを感じると共に、最近そのような話が聞かれないのは残念にも思う。

そうだ、見るべき手つかずの自然は残っている。次はどこを目指そうか。神秘の国ブータンか、ここネパールの秘境ムスタンか。世界の屋根チベットか。(旅先からの手紙より)

世界一の高峰エヴェレスト8,850メートル、世界第二の山K2 8,611メートルと眺めたら、どうしても世界第三位の山も眺めたくなる。ネパールの東部、インド,ネパールに跨るカンチェンジュンガを訪ね、盟主カンチェンジュンガ8,586メートルや怪峰ジャヌー7,710メートル、さらにヤルンカン8,805メートルとの対面を楽しみに、関西空港よりネパールの首都カトマンドゥ行き直行便の客となった。関空から一路カトマンドゥを目指す航空路は、巨大なヒマラヤ山脈を横切る。上空から眺める夕空に浮かぶエヴェレストが、マカルーが、そしてカンチェンジュンガの山塊を期待しての搭乗だったが、雲南省付近から雷雲たちこめ、機体は激しく揺れ続けヒマラヤ山塊など見えもしない。機はカトマンドゥを飛び越え、インド・ニューデリー空港への緊急着陸となった。パスポートを預託し、バスに託して空港近くのホテルで一夜を明かす。コーヒー一杯にもがっちりとドルの請求があった。(カトマンドゥ空港雷雨の為閉鎖)

翌朝、ふたたびネパール航空の機で引き返す。左手遥かにヒマラヤの山々が、氷雪をまとい屹立する。ぐっと高度を下げればもうカトマンドゥである。埃と人の群れと排気ガスの混じった、くすんだ街並みが目に入ってくる。1年半振りのこの地である。今回は極めて小さなパーティで、国内からは山口県からの東條氏と横浜よりの石渡氏との3人ツアーであり、やや淋しい。対人関係のクッション剤が見いだせなくなると気まずさも漂う懸念もある。現地、コスモトレック社のサーダーDBさんのほかはシェルパ・ポーター・クッキングスタッフとも合わせて10名強の小さな遠征隊である。ま、それよりも余り馴染みのないコース(このルートはネパールでも僻地であり、ツアー募集にも集まりにくいようで採算に乗らないのか、ツアー会社からは敬遠されている。日本人の悪い癖である人の集まるところに蝟集する性癖は、トレッキングでも変わりはなさそうである)に、この3月に迎えた古希記念ムいつまでも来られることはないとの恐怖感ムもあって、自らを叱咤激励しつつ、敢えて挑むこととした。カトマンドゥに着陸した後、トレッキング会社で身支度をして再び東部の都市ビラトナガールに飛ぶ。一泊する当地第一のホテルでも熱いシャワーは期待しえない。この都市、まさにアジアの原点を彷彿させる街並みである。地平線に落ちる太陽、三々五々集まっては会話を楽しむ人達、力車の群、電灯も薄暗い街並み、崩れかけた家々。

翌日、タプレジュン空港に小型機を乗り継いで漸くトレッキング出発点に立つ。ここからは自分の足と背負った荷物だけが便りである。勿論ポーター・クッキングガイド達の支援がなければ、我々は立ち往生するだけであるが。
昨年のネパール王朝事件以来、何かと問題を起こしつつあるネパールだが、トレッキング客への取扱いは、訪れる人が減っているせいか却って丁寧である。また、少人数−−その会社としてもこの地域へのトライアル的な意味を含め−−である点か、かなり細かな点まで気配りが行き届いている。ただ、大パーティであると準備される日本固有の食べ物は制限されることは致し方ない。



(朝)・・・お粥、味噌汁またはラーメン、チャパティ、目玉焼きかゆで卵
(昼)・・・ラーメン、ウドン、焼いたパン
(夕)・・・餃子モモ、春巻き、カレー、デザート、寿司(海苔巻)、ご飯、デザート(缶詰の果物)
高巻きの 幾百千里 グンサコシ
酒飲みに ネパールの山 膝笑う
オリオンを 翳して夜空 怪ジャヌー
淡雪の 融水ひたす ロナーク湖

(後記) 

同時多発テロとアフガン戦争後、日本人の関心が中央アジアに向けられるようになってきた感がする。いま、夢枕獏氏の「西蔵回廊−カイラス巡礼−」や、宮本輝氏の「ひとたびはポプラに臥す−シルクロード紀行文−」などが本屋の店頭に並ぶ。利にさといジャーナリズムが何かを嗅ぎ分けて発行に及んだとしたら、アプローチ手段が容易になったと言うこと以外に、日本人の関心の高まり以外にはまず考えられない。机の上にある、日本人の書いたシルクロード旅行記の古典ともいうべき河口慧海「チベット旅行記」、あるいは深田久弥等「シルクロード −過去と現在−」とを読み比べてみると、探検・学術研究の段階から、我々を含む一般市民による観光の段階にまで拡散してきたことが感じられる。辿る方式は変わったにしても、そこには数千年前と同じ自然と人々の生活が、続けられている。
「民族の十字路」、それは二千年も前からの人類による祈りの道であったのかもしれない。
近時TVでは、カイラスの先に壁面に飾られた新たなる古墳の発見を報じていた。

夢枕獏は言う。「今、このきらきらする言葉の中にいて・・・あの生命の危険にさらされた旅、絶望的な思いで、氷河の上に一歩一歩を記算でいたあの時間を、恋しく思っているのだ」と。
帰ることの出来る豊穣な土地があればこそ、荒涼たる大地も、不毛の氷河も、素晴らしい景観として堪能する事が出来るのであろう。そして宮本輝が書き記しているように「極貧の村々が、砂漠が、砂嵐が、蜃気楼が、オアシスの民が、カラコルムの峰々が、これまでかこまれまでかと、私のいんちき臭さを白日の下にさらし続けていたのだ」。

そう、我々日本人にとっての西域は、何時までも未知・夢・謎・冒険の要素を孕む「文明の十字路」「民族の交差点」であり、゛日本人とは」あるいは「現代とは」を問いつづける鏡なのであろう。 (飯田氏記)




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