Himaraya Trekking
  秀峰マナスルの白い風(その5) 綾部 一好
     
  秀峰マナスル(8,163メートル)ベースキャンプを訪ねて28日間の記録
平成20年(2008年)10月14日(火)〜11月10日(月)
 

第十九日
11月1日(土)
 Dharamsala 〜 Larkya La ラルキャ・ラ 〜 Tanbuche タンブーチェ 〜 Bimtang ビムタン
「Larkya La ラルキャ・ラ 峠 越え」
 2時起床、 2時半朝食、 3時出発。
 La とは、峠のことである。同じ峠でも、三千メートルや四千メートルの峠は、このヒマラヤ山脈では低いので、La とはいわず、Banghan バンジャンという。 Larkya La ラルキャ・ラ は、5135メートルの高さである。

 星だけしか見えない中を、ヘッドライトをたよりに登る。登りっぱなしの四時間である。二時間ほど登った所で、道がうっすらと見え始めてきた。まわりもほんの少しだが、明るくなってきているように感じた。そう感じたときと、びっくりしたのが、まったく同時であった。それまで、ヘッドライトの光で見える、前を行くシェルパーの足元だけを見ながら登っていたので気がつかなかったが、左側に、大きな山がそびえ立っているのである。それに、歩いている細い道から、五メートルとは離れていない。六千をはるかに越える高い山が、おおいかぶさるように、垂直に伸びている。ほんとに一瞬、びっくりしてしまった。

 峠に着くと、峠からは西側に、Cheo Himal チェオ・ヒマール(6820メートル)  Nemjung ネムジュン(7140メートル)  Gyajikang ギャジカン(7038メートル)  Annapurna アンナプルナ峰(7937メートル)の眺望が広がる。周りが全部六千、七千、八千の山脈ばかりである。 Larkyala Peak ラルキャラ ・ ピーク 以外、その名前が分らないのが残念である。

 明るくなってくるように見える向こうが、東になるのか。この後に見た日の出は、文字や言葉の世界ではない。私がよく使う、「充足の極致」 「感動の極限」で、もう何を持ってきても、綴ることなどできはしない。

「Asa さんからの present  (Success  Full   Larkya)」
 Manaslu BC の時のつらさがうそのように、この Larkya La は、快調な足取りで、上まで登ることができた。夜は夜で、食事もよくすすみ、日本食とネパール食の両方を、残さず食べてしまった。 「pet bary bayo」 悦に入り、一人口ずさんでいた。その時である。「あやべさん。おめでとう。」 Asa さんの声がした。

 Asa さんと Lakpa さんが、二人して、大きなデコレーションケーキを持って来たのである。Asa さんは、二泊もキャンプする予定だった Manaslu BC の夜に、このケーキを作りたかったに違いない。あの時は苦しくて、カメラも、最後はウェストバックまで持ってもらっての登りであった。疲れ果ててテントに入った私を、Asa さんは心配のあまり、ケーキどころではなかったのだろう。

 「よかった、よかった。本当によかった。綾部さん、おめでとう。」 そういいたげな表情の Asa さんであった。


ラルキャ峠に着いてシェルパのデックさんと喜びあう。後方の山は5千米をこえている。


名前のついていない山々が、四方に広がっている。もちろん六千米、七千米を超える山ばかりである。5135mのラルキャ・ラに立つと、どの山も手軽に登れそうな山にうつる。


ラルキャ・ラ登頂を祝ってAsaアサさんがつくってくれた手作りケーキ。食後なのでとても食べきれない。


北西側から見たマナスル。


北西側から見たマナスルとラルキャ・ラ。


北西側から見たマナスル。


第二十日
11月2日(日)
 Bimtang 〜 Hampuk ハンプク 〜 Yak Kharka ヤク・カルカ 〜 Surti Khola スルティ・コーラ
 〜 Goa ゴア
「Hampuk ハンプクに咲く laliguras ラリグラス」
 Bimutang からは Dudh Khola ドゥド コーラ(ドゥド川)に沿って下る。この Dudh Kholaは、 Dharapani ダラパニイで Marsyandi River(マルシャンディ河)に注ぎ込むことになる。その途中、Hampuk ハンプクで、laligurus ラリグラスの樹林帯に入る。

 laligurusとは、日本でいう石楠花である。この花は、ネパールの国花である。、ヒマラヤ山脈に入ると、どこかでは、この花を見ることができる。太い木々のlaligurusが、樹林帯を作っているので、想像以上にそれは見事なものである。といっても、じつは、このlaligurusの花が、今のこの時期、咲いているわけではない。

 咲く頃、このlaligurusを、ここで見たら、それはそれは見事なものだろうな、という願望から思わず、「Hampukに咲く laligurus」と書いてしまったのである。

「きれい好きである Kitchen スタッフには、どう映っているのか・・・この『蝿』という動物」
 Kitchen スタッフには、私が、いつも感心して見ているものがある。使った皿、ボール、箸、スプーン等の食器はもとより、一度それを使うと、鍋でも釜でも、必ず磨き粉をつけてきれいに洗うのである。その洗い方がじつにていねいで、前から感心して見ている。

 ていねいといえば、料理前に、doku カゴから食器や食材を取り出し、その日の台所となる調理場に、それ等を並べるときのていねいさといったら、びっくりする。平面の床に、重ねず、いくつかに分類して並べながら置いていくのである。

 場所柄、家畜を飼っている家にテントを張ることがよくある。コーヒやお茶など飲む時は、「うるさいな」と思いながらも、この「蝿」に耐えることはできる。しかし、食事となると話は別である。右手、左手と交互に使いながらの食事は、それは大変である。手を動かすことも大変だが、本当に大変なのは、「蝿」が止まるのを見ながらも、それを食べるのに、慣れていくのが大変なのである。「蝿が止まった食品は、私は食べません。」などと言っていたら、このネパールでは、食べられるものなど何ひとつない。調理場の、あの「蝿の動き」を知ってしまったら、普通の日本人なら、もう頭の中がおかしくなってくる。きれい好きのKitchen スタッフには、この「蝿」は、どう映っているのか知ってみたい。

 一度、アフリカのタンザニアに行ったことがある。 Ngorongoro ンゴロンゴロ自然保護区で、マサイ族がすむ村を見学したときのことである。部落全体が、大きな円になっていて、中央に柵をした家畜(牛)の家があり、その周りに家がある。この作りは、もちろん、家畜を一番大事なものとして考えているところから生まれたものである。

そこにいる子ども達の顔には、「蝿」が何匹も止まっている。何かを食べた後の、子どもの口元などは、それは大変な「蝿」の数である。
「家畜 ハエ 人間」。  ここでは、共存の生き方なのかも知れない。


第二十一日
11月3日(月)
 Goa 〜 Tilije ティリジェ 〜 Dharapani ダラパニ 〜 Tal タル
「 『何』があるから、そうなれるのか。すぐに、親しい間柄になれる彼等。」
 「Dek さんが、誰かと、初めて会う。」 「Lakpa さんが、誰かと、初めて会う。」 そのときに、私がいつも、感心し、うらやましく思っていることについて書いてみる。これは、Dek さん、 Lakpa さんだけでなく、二人が会っている相手の人にもいえることである。

 昨日、Surti Khola スルティ・コーラの村でも見た。一昨日、Bimtang ビムタンの村でも見た。「Dek さんが、一人の女性と会う。会って話をする。」 何分もしないうちに、打ち解けあい、仲良しになる。微笑みあい、笑いあい、どちらからの会話も弾んでくる。お互い、相手を見る目、顔の表情がじつに親しげである。今までに何回となく会っていた、既知の仲間のようである。

 「友だち ?」と聞くと、「友だちです。」と答える。「何回か会ったことがある、友だち ?」と聞くと、「初めて会った友だちです。」と答える。そのセリフは、Surti Khola のときも Bimtang のときも 同じである。
 Lakpa さんについては、この翌日、Chamje チャムジェの村で同じようなことがある。このときは、Lakpa さんと、二人の女性との会話である。どこから見ても、この三人は、親友どうしのように見える。「Lakpa さんの友だち ?」と聞くと、「そうです。ぼくの友だちです。」という。「今日の前に、会ったことが何回もある、友だち ?」と、ていねいに聞いてみると、「今日、初めて会った友だちです。」と、予期した返事が返ってくる。

 私に映る、彼等の、親しげな会話、表情は、それはそれは、じつにさわやかなものである。例えていうなら、「長いこと会えなかった、昔の、仲のよかった同級生に、久しぶりに会った。」 そんなときに見る「あの雰囲気」と、それは、まったく同じようである。

 日本に住む私には、持ち得ない「何」かを、彼等は持っている。

「どん村にも、必ず、そのいくつかはある。 『祈り』の表象物 」
 今回の二十八日間に及ぶ Manasluの旅は、「感謝」と「祈り」の旅であったような気がする。高地に住む人たちからの、温かいもてなしをたくさん受けることが出来た。厳しいヒマラヤに生きる人たちの、熱い信仰心にも触れることが出来た。
人間としての生き方の基本を、あらためて見直す、静かな、ゆっくりとした時間がたくさんたくさんあった。そしてまた、「感謝」と「祈り」が、身体の奥の方で、ひとつに溶け合い、膨らんでくるのに格好の、bestarary ビスタライ、 ビスタールな時間の流れかたであった。

1. Chorten チョルテン (仏塔。丸型が一般的であるが、角型もある。)
2. Mani マニ石 (チベット仏教の経文を彫り付けた石。その多くは オム マニ ベメ フムという経文が彫られている。)
3. Mendan メンダン (マニ石を長い壁状に連ねた塚。わきを通るときは、メンダンを右手に見ながら歩くのが礼儀である。)
4. Mani マニ車 (中に経文が入った円筒状の仏具。右回りに回転させると、経文を読んだことになる。)
5. カンニ (仏塔門。仏塔の基部をくり抜いて、門にしたもの。村の入口に据えて魔除けとしている。門の天井には、華麗な曼陀羅が描かれている。)
6. Tharcha タルチャ (タルチョともいう。経文を木版印刷した祈願のぼり。五色のタルチャがよく目に付く。)
7. Janda ジャンダ (竹の棒などに取り付けてある祈願旗。必ず五色で、上の方から、青 白 赤 緑 黄に並ぶ。)
8. 流れ落ちる水を利用した水車 (Mani車を模している。マニ車と同じように、右回りに回転するように作られている。)
9. 道の、真ん中に設置されているお墓 (小型のチョルテンのようである。)
10. Gompa ゴンパ (チベット仏教の僧院。)

高地に住む人の真似をしながら、いたるところで、惜しみなく時間を使って、私もお祈りをした。

「今回の二十八日に及ぶManasluの旅は、二人の弟への弔いの旅でもあった。」
 今年、平成二十年二月二十三日に、私は弟、好雄を失っている。さらに、七月二十二日に、義弟の、誠くんをも失っている。

 親の死も辛かったが、それでも四十九日を過ぎる頃には、なんとか、心の中を整理する力が出てきて、その辛さ、悲しさをかろうじて乗り越えることができた。しかしながら、弟となるとそうはいかないのである。未だに乗り越えられないでいる。

「神のなされることは  みな  時に適って  美しい ・・・」
 旧約聖書の「伝道の書」の中にでてくる一節である。
 「災難にあう時は  あうがよかろう。 死ぬる時には  死ぬるがよかろう。」
これは、良寛のいった言葉である。

 熱い信仰心を持つ、高地に住む人の、あの「祈り」を真似て、私もいたる所で祈りつづけた。厳しいヒマラヤの地に生きる人と同じように、感謝につながる、あの「祈り」を、時を忘れて祈りつづけた。
 マニ石に手を触れ、額をつけ、そして祈る。チョルテンの前では、ひざまずき、そして祈る。ゴンパの所に来ては、ひれ伏して、あの五体投地を真似てみる。

 あと一つだが、つかみ得ない「何」かがある。

「Annapurna Himal アンナプルナ・ヒマールは、やはり人気のある山である。」
 Bimtang ビムタンからDudu Khola ドゥド コーラに沿って、山を降りてきた。ミルクという意味を持つ、白濁色のDudu川が、緑そのものの色をしているMarsyandi River マルシャンディ河に合流する所が、Darapani ダラパニ という大きな村である。 

 Darapaniに入ったとたん、急にたくさんのトレッカーに会う。これまでとは違う。今までは、一日目からそうであるが、多くても、日に二組か三組の登山グループしか会わなかった。それがここへ来て、すれ違うときの「namasti ナマステ」の挨拶は、「Hello」に変わるし、お互いの数が多すぎて、「Hello」の挨拶も、時々「パス」をする。

 荷物を背に載せて運ぶ、danke ドンキと呼ぶ馬が、十頭も二十頭も連なって来るのに出会うこともある。このDarapaniの村で、Annapurna一周コースと合流するからである。


いつも八品以上はでてくるAsaアサさんの食事。日本食ばかりをつくりながら六年がたつという。とにかくうまい。


第二十二日
11月4日(火)
 Tal 〜 Chamje チャムジェ 〜 Jagat ジャガット
「ロッジの多い、Tal の村」
 Tal とは、池という意味である。激しく流れ落ちてきたMarsyandi河が、ここへ来て、この地で、幅を大きく広げて、ゆったりと流れている。なるほど、池のようでもある。その池の片側だけだが、高い山が切り立っている。山肌に吸い付くようにして、長い滝が流れている。百メートルか二百メートルはありそうだ。それも、ここから三つも見ることができる。

 今までは、あまり見ることがなかったロッジがいくつも並んでいる。これ等は、みな Annapurna Himalに向かうトレッカー達に用意されているのである。立派な Tibetan Hotel チベタン・ホテルまである。そういえば、このTalで見た「カンニ」や「チョルテン」も、ひときは立派だったように記憶している。

「何がよかったのか。 快食  快眠  快便の毎日。」
 今回、初めて「amino vital アミノバイタル」を持っていった。これと「新ビオフェルミン」の整腸剤は、毎食後、かならず飲みつづけた。これだけが、体調のよかった原因ではないだろうが、朝食前の「快便」から始まって、体調はすこぶるよかった。

 日本から持参した薬は、何一つ使わないですんだ。Asaさん の作る食事が、この私に合っていたことも、その原因の一つであることは、これは間違いない。

「恵みの 雨」
 初めて、降らないはずの、雨が降った。雪の降った日は二度あったが、積もったのは高い山の上だけであった。その雪の日も含めて、毎日、夜は満天の星を見てきた。今日のTalの朝は、はじめての曇り空である。ほんの少しだが、時々雨も感じとれる。

 サーダーのLakpa Sonaさんに聞いてみた。「雨具は用意した方がよいですか。」 「そんなのいりません。ここはヒマラヤです。」笑い転げた返事が返ってきた。雨具は、ポーターに運んでもらう大きなダッフルバッグに入れたままにして、出発した。

 Chamje チャムジェの村で昼食をとっているとき、かなり雨脚が強くなってきた。きちんと荷作りしてある Doku 籠をほどいてもらい雨傘とカッパを取り出す。

 ほんの一、二センチだが、ズボンがカッパの外に出ていた。こんなとき、Lakpa さんは、それを見逃すことはない。雨に打たれながら、器用に直してくれる。この直すしぐさに、いつも私は心打たれるのである。

 この「思いやり」には「やってあげましょう。」という「おしつけ」が、まったくないのである。それと、「これでどうですか。」という「みかえり」を期待するそぶりも、まったくないのである。私が日常みている「思いやり」とは、それは、まったく異質なものである。「深い、浅い」とか「ていねい、らんぼう」とかの程度の違いではなく、相手の人をみる、その「視点」がどうも違うようである。

 雨が降ったおかげで、日本の国では見ることのできない、貴重な「思いやり」に、また出あうことができた。

 この後、このChamjeを出てから、前に書いた「Lakpa さんと二人の女性との会話」の場面に出あえたのである。

予定の時刻より、かなり遅くなって、Jagatに着いた。私がなかなか到着しないので、心配して Dekさんとポーターの一人が迎えに来た。雨具を持たないから、二人ともびしょぬれである。


第二十三日
11月5日(水)
 Jagat 〜 Syanje シャンジェ 〜 Bahundara バウンダラ 〜 Ngadi ナディ
「Marsyandi River マルシャンディ河 と Jyaukuri ジャオクリの競演」
 Jagatを出ると道は登りとなり、次第に岩場道になる。道から河まで相当な高度差があるV字型の渓谷である。アップダウンを繰り返しながら Syanjeの村に着く。

この道中で、こんなすてきなことに出あえたのである。
 河までかなりの高度差があるが、このMarsyandi河は、水の量も多く、それに、その流れも激しいので、左の方から、その「音」が、小さいがかすかに聞こえてくる。それでも、長い登りが続くと、いつのまにかその「音」が消えてしまう。

 消えてしまうというより、その「音」を、Jyaukuri ジャオクリの「鳴き声」が消してしまうのである。Jyaukuriとは、ネパールに住む蝉である。じつにきれいな声で鳴く。ジイジイ蝉の鳴き声に似ているが、声がもっともっと澄んでいる。スズムシの鳴き声にも似ているが、あれほど声が澄んではいない。ジイジイ蝉とスズムシが力いっぱい声を合わせて鳴いたら、このJyaukuriの鳴き声になるかも知れない。

 今度は下りが続くと、右の方から聞こえていた、Jyaukuriの「鳴き声」が、左の、Marsyandi河の水の「音」に消されてしまう。そんなすてきな「音」と「鳴き声」の競演を、三度も四度も耳にしながらの一日であった。

 神様が、がんばりぬいた私のために、Manasluの旅の収束を、飾ってくれているのがよく分かる。「今、ここにいる私」は、最高の果報者だと、つくづく思い知らされた一日であった。

「ローソクの明かりで、勉強する三姉妹」
 明るいうちに Ngadiの村に着く。ロッジを持つ一軒の家の庭を借りて、テントを張る。テントの中でいつものように、物書きをしている。三人の子が興味ありげに、私の、テントのそばへ来る。芝生の上で、私の真似をして、腹ばいになり、頬杖をつく。「さあ、お話をしましょう。」という顔である。

 いろんな楽しい話しをした後で、村の名前の Ngadiをガティと呼ぶ私の発音が、少しおかしいと言いながら、三人が、何回となく繰り返し、ていねいに直してくれる。ガティでなく、ナディだと、この三人はいう。
 この三人こそ、ローソクの、その三姉妹である。

 この日がテントの最後とあって、早めに夕食をすませる。Kitchin スタッフと ポーター達がいっしょになって、好きな Rokshi ロクシーというお酒を飲みながら、例のネパールダンスがここから始まるのである。誰もが歌好き、踊り好きで、笑いの耐えない好青年である。

 にぎやかにダンスの音樂が続いている。その部屋から、十数メートル離れた、向うの薄暗い部屋に、ローソクが灯っている。興味を覚え、近くまで行ってみると、疲れ果てて寝ているかと思っていた、その三姉妹が、ローソクの光の中で、なんと勉強しているのである。土間に椅子を置き、そこに腰掛けて、子ども達を見守っている、二十歳前後の、先生役をしている女性がいる。Lakpaさんに頼み、子ども達の勉強している姿を少し見たいのだが、よいかどうか、その先生に聞いてもらうことにした。

 土間をはさんで、両側に板の間があり、その片方が子ども達の寝る部屋らしく、すでに三人の布団が敷かれている。その布団の上で、腹ばいになったり、かがみこんだり、思い思いの格好で、三姉妹が勉強している。真ん中の一番下の子は、算数の勉強らしく、テキストには、時計の絵がいくつもかかれている。手前の一番上の姉と奥の子は、英語の勉強で、一行程度の英語の問いかけに、ボールペンでその答えを書いている。

 一メートル前後の土間をはさんだ反対側には、三姉妹の父親が、隣に一、二歳の子を抱えるようにして、すでに、ぐっすりと眠っている。子ども達の先生は、後でLakpaさんが言うには、歳の離れた姉であるという。この三姉妹は、じつは五人姉妹であったわけである。

 学習は、今日の学校での勉強の、宿題のようである。姿勢こそくずれてはいるが、真剣そのものの学習態度にすっかり感動してしまい、二十分をこえて見つづけてしまった。
 ここには、机も椅子も電気もないが、学習している三人の、その目の輝きはじつに美しい。いつもながら、このネパールで、心を打たれてしまう、子どもの目の美しさである。

 とうとう、私は見た。ネパールで宿題をする子ども達。それも、ローソクの灯で勉強する子ども達である。この旅が、またひときは輝いてくるような気がする。


ローソクの灯で宿題をする姉妹。あとでわかったことであるが、右側の先生役をしている女性はこの姉妹の、年のはなれている姉だそうだ。



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