Himaraya Trekking
  秀峰マナスルの白い風(その6) 綾部 一好
     
  秀峰マナスル(8,163メートル)ベースキャンプを訪ねて28日間の記録
平成20年(2008年)10月14日(火)〜11月10日(月)
 

第二十四日
11月6日(木)
 Ngadi 〜 Bhulbhule ブルブレ 〜 Khudi クディ 〜 Besisahar ベシサール
「一人旅のすすめ」
 私は、二十代の頃から三十代にかけて、南アルプスに魅せられて、約十年登りつめたことがある。その頃は、人の住む山小屋などどこにもなく、山も深いため、一日誰にも会わない、そんな日もあった。なぜか、この南アルプスに入るときだけは、単独のスタイルをとった。

 今回の、二十八日間のManaslu トレッキングに、これが経験として生きたかどうかはわからないが、大きな山、大きな旅になると、私は、この一人のスタイルが好きなのである。
 それでも、今回の山がヒマラヤであるために、崖から飛び降りるような、そんな思い切った決心、決断をすることも、何度かあった。そして、それなりの苦労もずいぶんしてきた。

 終わってみて、あらためて 「一人旅はいいものである。」と思っている。
 「いいもの」の具体例は、これまで書き連ねてきたが、そこに書けなかったいくつかを、並べてみることにする。

1. 「一人でいるより、二人でいる方が、はるかに楽しい。」という、当たり前のことが、心の深いところで、実感できたこと。
2. 「ネパールの国に入ったら、その国の、ネパール語を使い、その国の、ネパール人とたくさん接し、ネパールの国をよく理解する。」という、当たり前のことが、たやすく、実行できたこと。
3. 「感動した場面」に出会えたとき、それなりに、たっぷりした時間をかけ、ゆっくり、ていねいに味わい、その感動をさらに大きく、ふくらめていくことができたこと。
4. 写真好きの私にとっては、誰に気兼ねもせず、どこでも、何枚でも、気のすむまで写すことができたこと。
5. kitchen スタッフ、ポーター達と、すばやく仲良しになり、深い付き合いができたこと。

「これが  これこそ  ネパールだ。」
 Khudi クディから、かなり早足で下山してきたので、Besisahar ベシサールには、昼を少しまわったところで着いてしまった。

 一、二時間も待ったら、バスが来るのかな、と思って待っているが、なかなかそのバスはやって来ない。三時になっても、五時になっても、六時を過ぎても、来るはずのバスが来ない。予定では、今日の六日、Besisaharから五時間バスに乗って、Kathmanduに着くことになっている。

 「下山してくる私たちにあわせて、バスが来る。」 「私達が、バスの着く時刻にあわせて、下山してくる。」などという芸当は、日本のもので、このネパールには通用しないのである。

 バスが来るのか、来ないのか、誰も知らない。それなのに、kitchen スタッフもポーター達も、平然とした顔をしている。

 『ネパールでは、何事も、ビスタールの国です。時間どおり、予定通りに物事が運ばない場合も多々ありますが・・・』と言っていた、コスモの社長さんの言葉が、また頭をかすめ、そしてまた「そうか、Kangchenjunga のときにも、そんなことがあったな。」 と、四年前のことを思い出して、バスのことを考えるのを止めることにした。

 結局、来るはずのバスは、来なかった。

「Asa さんの特製ケーキ   (HAVE A NICE LAST DAY)」
 予定になかった、Asa さんの手作りランチを食べ、そして、これまた予定になかった、Asa さんの手作りディナーを食べた。

 六時四十分。Asa さんの特製のケーキが、また、届く。

 チョコレートのおいしいケーキを食べながら、このBesisaharで、もう一泊するのだなと思った。このケーキも、予定の中にはなかったものである。大きな料理包丁の柄は、銀紙できれいに巻かれている。Asa さんの、私への思いが、特製ケーキの飾りつけの、あちこちににじみ出ている。


第二十五日
11月7日(金)
 Besisahar 〜 Kathmandu
「ヒマラヤ山脈は、やはり、高くて、深い山なみである。」
 Besisahar ベシサール からKathmandu までは、バスで五時間の距離である。Besisahar を出発して、すでに三時間が経つ。周りの山々は、たしかに少しずつ低くなってきている。バスの窓枠を通して見る一枚の絵は、若いときに登った、南アルプスの荒川岳や赤石岳の、あの景色に似ているようにも見える。

 でも違う。何度となく、そうしているが、バスの後ろを振り返ると、八千メートルを越える、真っ白の、雪の Himalが、まだ見える。

 四時間が経過した。南アルプスを連想させた、その景色が一変する。左の方に、突如、雪山の Himalが現われる。もちろん、今まで見てきた Himalは、バスの後方に、ちゃんとある。
 ヒマラヤ山脈は、私の想像などおよびもつかない、深くて、高い山なみなのである。

「 『Manasluの旅』は、これで、終わってしまうのか。」
 Kathmaduに着いて、すぐに始めた荷物整理が終わる。そのあと、かなりの、ゆっくりした時間があった。思いだにしなかった、貴重な、たくさんの体験が、次から次へと頭の中を去来するだけで、荷物の整理は終わっても、頭の中の整理は、何ひとつ出来ない。

 「Manasluの旅」が、その計画の吟味、学習の時点で、すでに始まっていたとするならば、二年前の十月に、この「Manasluの旅」は、スタートしたことになる。

 山の上り下りの、その距離は、測ることなどできないが、地図上の水平距離で、この「Manasluの旅」は、約210キロメートルある。

 二年という歳月を費やしてきた「Manasluの旅」。
 210キロメートルの距離を、とうとう、歩きとおしてしまった「Manasluの旅」
 私にとって、この「Manasluの旅」は、何だったのだろうか。この「Manasluの旅」は、私にとって、どんな意味を持つのだろうか。

 これから、また時が流れる。その、時の流れの中で、「Manasluの旅」の「何か」が発酵し、そしてまた、その、時の流れが、「Manasluの旅」の「何か」を醸し出してくれるかも知れない。そのときこそ、さらに大きく膨らんだ 「Manasluの旅」が、旧約聖書の「伝道の書」第三節の中にある「神のなされることは みな 時に適って美しい。」 この意味を、私に教えてくれるかも知れない。

 良寛和尚のいう 「災難にあう時は、あうがよかろう。 死ぬる時には、死ぬるがよかろう。」    もしかしたら、そのときこそ、良寛和尚のこの境地に、私もたどり着くことができるかも知れない。


第二十六日
11月8日(土)
 Kathmandu
「Sherpa シェルパ族 の、 Lakpa Sona さんの家」
 トレッキング中にも二度ほど、Kathmandu に向かうバスの中でも 「あやべさん。ぜひ、僕の家に来てください。」と再三、Lakpa さんがいう

 彼の家は、Kathmandu の西北の郊外にある。Lakpa さんは、今回のトレッキングで世話になったポーターの一人、Changmba チャンバさんの姉である Chhamgi チャムジさん と結婚している。
Chhamgi さんも、彼と同じ Cherpa 族である。五ヶ月になる娘さんを抱きかかえての、歓迎である。

 部屋は、ひと間だが、かなり広く十畳以上はある。台所、トイレは外にある。Buddhaの像が飾ってある祭壇が、とても大きく、広い部屋の三分の一を越えている。Cherpa 族の家は、皆、こうしているのです、と教えてくれた。

 家のすぐ近くの、有名な Baudha Nath ( SWOTAMBHUNATH )に案内してくれる。外国から来た人たちが立ち寄る、観光名所の一つにもなっていて、この日も、たくさんの人でにぎわっていた。「家から、十分近くの所に Baudha Nath がある。」と、彼はいったが、彼等二人が、この Budha Nath の近くに、自分たちの住む新居を選んだのかも知れない。

「 D・B さんが、会いに来てくれる。」
 夜七時。突然、部屋の電話が鳴る。「綾部さん、お元気ですか。」一瞬、誰だか分からない。部屋に、「日本語」で電話をよこすとしたら、今回のトレッキングの世話をしてくれた、東京の中野さんしか思い当たらない。国際電話なので声が少し変わっているのかな、と思いながら「中野さんですか。」と聞き返す。「私です。綾部さんに会いたいです。ロビーで待っています。」
急いでエレベーターに乗る。「そうか。そうだったのか。声の主は D・Bさんだな。」エレベーターの中で、もう、分かっていた。

 「あした、早朝五時に、お客様を連れて、Nagarkot ナガルコットに、仕事で行きます。今晩しか会えないので、来ました。」流暢な、美しい日本語がさらに続く。
 「おみやげを、用意してあるのですが、今、私は、仕事を終えて、そのままここへ来ました。おみやげを、私の手からは、渡せません。私の兄の息子が、あしたの朝、綾部さんの時間に合わせて、持って来るように、もう、頼んであります。1キログラムの重さですが、どうか、受け取ってください。」
そして胸に手を当てながら、「それを、綾部さんが、受け取ってくれると、僕の心が、ほっとするのです。」という。

 「私は、綾部さんに、謝らなければならないことが、あります。綾部さんが、Kathmanduに着く日を、私は、知っていました。本当は、今晩ではなく、その日に、会いたかったのです。メラ・ピークにお客さんを連れて、仕事に行っていたので、ごめんなさい。会うのが、今日になってしまって、ごめんなさい。」
最後、別れるときに言った、D・Bさんの言葉である。

 D・Bさんは、四年前、Kangchenjunga トレッキングで世話になったときの Sirdar サーダーである。D・Bさんに初めて会ったときの様子を、私はこう綴っている。
『Kathmandu に入国して、一番はじめに会ったのが、今回のトレッキングのサーダー(sirdar)であるD・Bさん。
空港では、二言、三言しか話してはいないし、ともにした夕食時も、たいした話はしていない。
それなのに、その時に、そして別れたあとに、私の心に灯った、あの不思議な感じは何だったのだろう。

 うまく言葉ではいえないが、この歳まで生きてきた中で、このような感じの人には、まったく会ったことがないような、そんな人に思えた。三十五泊も、朝から夜までのテント生活をともにしていたら、この私はきっとこのD・Bさんが大好きになってしまうだろう。』

 今回のManaslu トレッキングのサーダーが Lakpa Sona さんであるのは、この D・Bさんの働きかけがあったからである。


カトマンドゥの西北はずれに位置するBaudha Nath バウダナスで長いこと祈り続ける少年。心に何か灯っているのだろうか。この後、私もまねて長いこと祈った。


第二十七日
11月9日(日)
 Kathmandu Airport 〜 Bangkok Airport
「これは、偶然の一致なのか。」
14時15分。   Kathmandu空港を、飛び立つ。Annapurna Himal アンナプルナ・ヒマールと Manaslu Himal マナスル・ヒマールの二つが、一瞬、視野に入る。五分後には、どれがどの山かの判別がつかなくなる。横に長く伸びている山脈が、遠くの向うから、一つ二つと、手前に向かって数えると、五層もある。

15時15分。    ギラギラ光る太陽が、周りの景色を独り占めして、山々を薄くしてしまう。

16時15分。    羊雲か、それとも、いわし雲か。あたりを、くまなく覆い尽くして、「白」しか見えない。お日様のあたる「白」は、ことのほか美しい。

16時30分。     「青」の空と「白」の雲が、遠くの向うで重なる、その境に、もう一つ「白」の雪の Himalが見え始める。太陽が、その境の、すぐそばまで来ている。あと、十分とはもつまい。 

16時37分。     太陽の近くから、雲の「白」と、雪の Himalの「白」が、茜色に染まってくる。見事なものだなあ、と思ったときには、太陽は、もう隠れていた。飛行機は、今、「青」の空と、まだ、ほとんどが「白」である雲や雪との、その間を、飛んでいる。

16時45分。     「赤」の太陽が、上の、雲や雪を、どんどん茜色に変えていく。今、ここからは見ることができないが、「赤」の太陽の下には、ヒマラヤ山脈の「緑」の樹木が、「黄」の大地に根を張って、生き抜いているはずである。

チベット仏教の、あの「祈願旗」。Janda ジャンダ(ルンタ)。  あの Jandaの五色と、これは、同じ順序ではないか。一番上が「青」。その次が「白」。そして順に、「赤」 「緑」 「黄」と続く。
この一致は、たまたまそうなった、偶然なのか。
私には、これが偶然だとは、思えない。

神が創った自然界は、今のこの時が一番穏やかで、すべてが、調和した位置にあるように思えてくる。たいしたことは、なに一つしていないのに、ひとりでに、「感謝」の「祈り」の中に入っていくのがよくわかる。


第二十八日
11月10日(水)
 Narita Airport
「 『祈り』と『感謝』は、同じものかもしれない。」
「『祈り』と、『感謝』は、同じものである。」
 四年前の、三十五日間の「Kangchenjunga カンチェンジュンガの旅」から、今度の、二十八日間の「Manaslu マナスルの旅」へときて、やっと学び得た、私の「定理」である。

 Chorten チョルテンの前に来て、ひざまずき、「祈り」の中に入る。そして、「祈り」の中に入った、そのときに、私が見ていたものは、「私を、これほどまでに、丈夫な身体にして」生んでくれたことへの「感謝」を、今は亡き、父母にしているのである

 そしてまた、Gompa ゴンパの前の大地に、五体を投げ出して、ひれ伏し、「祈り」の中に入れたときに、私が見ていたものは、わがままで、他と和して生きていくのに、非常に不器用な私を、ここまで支えつづけて、「今の今、ここに、ひれ伏して祈る私」にしてくれた、妻の有子への「感謝」であった。

「おわりに」
 書き終えるまでには、三、四ヶ月はかかるだろうと思っていた、このManaslu紀行文が、意外にも早く、二ヵ月足らずでできあがってしまった。

 十一月十日に帰国して、約三週間、外に出ることもなく家の中でゴロゴロしていた。「体中が、ぼろぼろになって・・・」と、私を気遣う人には話してきたが、二十八日間に及ぶ、極限に近い生活の連続で、心身両面、完全に疲れ果ててしまったからである。
 ネパールでのトレッキング中は、日々やってくる新鮮味のある、貴重な体験が、心身の奥にたまっているはずの疲れを忘れさせていたのだと思う。

 家にいるその三週間は、朝に晩に、このManaslu紀行文を綴ることにあててきた。ただの一日の、休みもなく、である。

 「文を綴る」というのは、やってみるといつも気がつくことであるが、想像以上に面倒で、大変な作業である。
 しかし、今回のManaslu紀行文だけは、いつもと違っていた。この「Manasluへの思い入れのはげしさ」が後押してくれたようで、日一日と、そのページを重ねることができた。

 これまでにも、Manaslu紀行文のあちこちで 「貴重な体験、貴重すぎる体験」については書いてきたが、この体験を、ここで、今一度、あらためて「反芻 はんすう」することは、この私にとっては、たのしく、うきうきする作業でもあった。
 それに、「文を綴る」ということからくるのだろうが、その「反芻 はんすう」の作業が、ひときわ、ていねいにやってくるので、これがペンを止めなかった原因の一つでもある。

 日に五時間強。約五十日。単純に計算しても、二百五十時間の思いが、このManaslu紀行文の中には入っていることになる。
 「今回のManasluトレッキングへの思い入れのはげしさ」と題して、「村についての事前学習」のことを、一度書いた。
 ふつふつと沸いてくる、意欲、熱っぽさを覚えながら、このManaslu紀行文が綴れたということは、これも「Manasluへの思い入れのはげしさ」の証であると、あらためて、「今の私」をうれしく思う。

 現地ネパールでメモしておいた、大学ノート四冊も、この「反芻」の作業には、ことのほか役立った。

「Manasluの旅」の紀行文は、ここで終わるが、書き残してしまったものが、ひとつある。書き残した、というより、今の、この私には書けないのである。

  ひとつ
「弟、好雄(平成二十年二月二十三日) と 義弟、誠(平成二十年七月二十二日)。 弟、二人の、死の、事実」
  ふたつ
「旧約聖書の『伝道の書』の第三節。
「神のなされることは、みな、時に適って美しい。」
  みっつ
良寛和尚が残した、あの言葉。
「災難に逢ふ時節には、災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。」

この三つが、どこで、どのようにして、結びつくのか。 結びつかせるのに、あと、何がいるのか。
いつの日か、この難題が解ける日が、この私にもやってくることを願いつつ、ペンを置くことにする。




Copyright (C) 2009 FUJI INTERNATl0NAL TRAVEL SERVICE, LTD. All Rights Reserved.