Himaraya Trekking
  秀峰マナスルの白い風(その4) 綾部 一好
     
  秀峰マナスル(8,163メートル)ベースキャンプを訪ねて28日間の記録
平成20年(2008年)10月14日(火)〜11月10日(月)
 

第十四日
10月27日(月)
 Sama 滞在 (高所順応)
「 Welcome  to  Sama  Gone  (3HR) 」
 昨日 Lho から歩いてきた道を Sama Gone サマゴンへの分岐点まで、三十分ばかり戻る。同じ道を行くより、こちらの方が面白そうだということで、広い Kharka カルカ(夏の間使われる、家畜の放牧地)の真ん中を、二つに分けるように進む。
 
 様々な動物がいる。ヤクもたくさんいる。そのカルカは広いし、その数も多くて、何頭いるかはとても分らない。百頭いるのか、それとも五百頭か。

 分岐点の標識には、三時間と書いてあったが、私の足では四時間強かかった。行き帰りで八時間。高所順応の一日としては、少しきつかった。  

 絶壁に近い Manasluの東側の崖に、張り付くようにして、家が三つ。少し離れて一つ。中に Bauda が安置されている。日本の、あの「奥の院」といったところか。

「広い、カルカの一角   大きな、チョルテンのすぐ隣
    そのまま、秀峰マナスルの稜線へと続く    そこに、私のテントがある。」
 草を食べているヤクがいる。ぐっすり眠っているヤクがいる。隣の仲間と連れだって、動き回っているヤクもいる。ここは、今回のコースの中では Sama Gompa として知られる、かなり有名な場所である。大きな、立派な Chorten チョルテンが五メートルとは離れていない、すぐ隣に建っている。チョルテンの、ちょうど向こうに、真っ白い雪の、Manasluの主峰(8163メートル)がそびえ立つ。

 そこに、私のテントがある。そのテント場そのものが、最高の撮影場所である。何十枚写したら、気がすむというのか。


真っ白い雪の、Manasluの主峰(8163メートル)がそびえ立つ


チョルテンとマナスル








第十五日
10月28日(火)
 Sama 〜 Sama Gompa サマ・ゴンパ 〜 Manaslu BC マナスル・ベースキャンプ
「青の、空の近くに行きたい人だけが、通る道」
 この道こそ、五十二年前、十二名の隊員が、二十名のシェルパと四百名余りのポーターと一緒に登った道である。空の、青に魅せられて、この後、世界の各国から、何人の人がこの道を歩いたことだろうか。

 BCまで七時間強。苦しい。七時間の急登なら、北アルプスのブナ立て尾根と同じである。同じように苦しいが、苦しさが違う。その違いは、もちろん、標高差からきている。とにかく苦しい。苦しい、青の、空に向かう一本道である。空の、青に近づきたい人だけの、苦しい一本道である。

 Berendura Kunda ビレンドラ・クンド (氷河湖) を覗き込んだり、Manaslu Gl (マナスル氷河)を眺めたりしながら、息を整えては、また登る。

 Manaslu BCには、二泊して、さらに上へと登る予定であった。しかし、この日の気温が低すぎて、二泊は無理だと、サーダーが判断し、翌朝早くに下山することになった。


ベースキャンプから見るマナスル。このまますぐにでも登っていけそうに見えるが、登頂するには、第2キャンプ、第3キャンプと登って、最後の第6キャンプへとはげしい道のりが続くわけである。


マナスル氷河の上に立ってマナスルを望む。


第十六日
10月29日(水)
 Manaslu BC 〜 Sama Gompa 〜 Sama
「Yak Gobar ヤク・ゴバル(ヤクの糞)を、拾いに行く三家族」
 半日かけて、Yak Gobar ヤク・ゴバル を拾いに行く家族に会う。子どもが三人、その子の姉か、母親かは分らないが、三家族六人である。 Doku ドゥクという大きな籠を、それぞれが背負って、「ナマステ」と言いながら、足の遅い私を追い越していく。

 二十分後に、また会う。カラの籠を、それぞれが自分の後ろに置いて、輪になって、Makai マカイ(ポップコーンのもと)を食べながら、楽しそうに話し合っている。通りかかった私に「どうぞ」と、ネパール語でいう。「Dannibat ダンニャバード」。 得意のネパール語で、お礼を言いながら、しばらくいろんな話をする。

 Makaiを食べ終わった後、この三家族が何をするかを私はよく知っている。昼間の、強い太陽光線ですっかり乾いた、ヤクの糞を、籠がいっぱいになるまで拾うのだ。あと三ヶ月もすれば、雨季に入る。薪すらもない、この高地に住む人の、食物を煮炊きするときの、唯一これが「燃料」となるのである。

 厳しい条件のもとで暮らす、彼らの知恵の一つである。


第十七日
10月30日(木)
 Sama 〜 Sama Gompa 〜 Kermo Kharka ケルモ・カルカ 〜 Samdo サムドゥ
「ネパール調の Dekさんの思いやり」
 ここまでの十四日間のトレッキングは、快調そのもので、Morning time の前には、いつも荷物整理は終わっていた。しかし、一昨日のManaslu BCへの登り、昨日のManaslu BCからの下りはどちらも大変で、かなり疲れ果てていた。Morning Time の「紅茶をどうぞ」の声の十分前あたりまで、眠り込んでいた。

 「今日の荷づくりは、私がやります。」「今日は、この私にやらせてください。」 Dekさんの強い申し出に甘えて、荷づくりを任せてしまう。Samdoに着いて分ったことであるが、テントの中に置かれている私の荷物を見てびっくりした。ロープの結び方ひとつとっても、合理的で、しかもていねいである。

 寝坊した私をfollowするときの、そのタイミング、その言葉がけにも、ネパール人の思いやりを感じたし、「してあげました」と相手に思わせない「親切さ」にも、心をうたれた。

「今回の、Manaslu トレッキングへの思い入れのはげしさ」
 前にも書いたが、今回のトレッキングで、力を入れた事前学習が四つある。その中の一つに「村の名前を覚え、その位置関係をとらえる」がある。これにはかなり力を入れ、時間もかけた。一、二か月なんていう、はんぱな当たり方ではなく、一年、一年半という膨大な時間を費やした。

 ネパール語、チベット語に馴れ、親しむまでに一苦労した。白地図を書き、主だった山脈、川、氷河を書き込み、最後に、この「村」の名前を書き並べていくのである。

 「ヒマラヤの、高地に住む人と、たくさん話がしてみたい。」「高地の人が、大事にしている、思い、考えを知りたい。」十数年前から、私が持っている、この希求心に支えられての学習であった。だから、それは難しくはあっても、興味の膨らむ学習でもあった。

 今回のトレッキングは、Manaslu(8136メートル)を真ん中にして、その周り(地図上の水平距離で約210キロメートル)を、二十八日かけて登り、歩くというものである。そのため、いくつもの村を通り抜け、そして立ち寄りもした。村の人の心の中に入っていくのに、「村を知ること」が、一番の早道であることを、これまでの経験で、私は知っていた。

 日本人が私一人であることも幸いして、この「村の学習」が、村人との会話の切り出しとなり、会話を膨らめていくときに、大いに役立ったのである。45〜46個に及ぶ村の名前を、今でも、すらすら、飛ばすことなく、順序どおりに、全部言うことも、書くことも出来る。これは、私のManaslu トレッキングへの、思い入れの激しさの、その証でもあると一人自慢している。

 「yo gau ko name ke ho ?」 「ここの 村 の 名前は 何 ですか。」
 「tapai ko gau ko name ・・・ ho ?」 「あなた の 村 の 名前は ・・・ ですか。」

 初めて、人に会ったとき、私の会話はここから始まるのである。まさか、最初に 「tapai ko name ke ho ?」 「あなた の 名前は 何 ですか。」と切り出すわけにもいくまい。

「これぞ 理想の 兄妹」
 Samdoの村は、標高3900メートルの高地にある。ここが最奥常住村で、もうこの上には村はない。今回のトレッキングで見る村の中で、私が一番興味を抱いていた村である。約四十戸、二百人が住んでいるといわれている。

 この中の一軒の家に、世話になった、その時のことである。「これぞ、理想の兄妹」と書いたが、少しばかり、今困っている。というのは、とりたてて何か、強烈な兄妹愛のシーンのひとこまがあったわけではないので、文として綴るのが非常に難しいのである。

 Manaslu 北峰。それに続くManaslu北稜であるNike Peak ナイケ・ピークが、この村のどちらにあったかは、はっきり記憶しているが、反対側の後ろの方には、どんな山がそびえ立っていたのか、思い出すことができない。山に取り付かれている私にとっては、こんなことは、ここSamdo サムドゥ以外にはない。このSamdoでは、山に魅せられる代わりに、この兄妹の二人に魅せられてしまったのである。

 とにかく、二時間から三時間にわたって、五歳か六歳のこの妹と一つか二つ年上らしい兄の動きを、私は追いかけていたのである。二人のしぐさ、やり取り、表情、そして目の動きに吸い寄せられてしまったのである。うまくは書けないが、一、二その具体例をあげてみる。

 大きな、七十〜八十センチはあるかというカナダライで、二人して髪を洗っている。石鹸などないので、そのぶん、かなり長い時間、しぶきを飛ばしての威勢のよい洗い方である。終わる頃、近くにいた母親が一本のタオルを妹に渡す。これまた威勢のよいしぐさで、ゴシゴシと頭も動かして拭きだす。向こう側で兄がそれを見ている。ここまでのことなら、日常的によく見るシーンである。

 「拭き終わるまで、妹を見ている、兄の目」がなんともいえない。「妹が拭き終わるのを、待っていた」兄が、そのタオルを、今度は僕の番だよ、といいながら手を差し出す。妹は、渡す代わりに、「カナダライの向こう側の、兄の所に行く。」 そして「兄の髪をそのタオルで拭きだす」のである。

 それがすんで、今度は妹が、自分のクシで髪をとかしだす。たまにしか洗わないのか、クシがうまく流れない。髪を掴みながら、長い時間かかってとかしていた。

 終わってその後どうするか見ていたら、「兄の髪を、そのクシでとかしだした」のである。「痛いから、自分でやるよ、といいたげな、妹を見る兄の目」が、これまたいい。「私がやってあげるから、少しだけがまんをしてて、という妹の、兄を見る目と顔の表情」といったら、これ以上はない、最高の美しさである。

 文字で、うまく表現できないのが、とても残念である。すてきな兄弟姉妹もどこかには、やはりいるのである。




サムドゥの村で会った仲の良い兄妹。この子どもの家の庭にテントを張らしてもらったので、何時間も話し合うことができた。二十四枚写した写真の中の二枚がこれである。

「Asa さんの思いが伝わってくる Dinner の Menu」
 毎日、休みなく歩きつづけているので、疲れが少しずつたまってくる。私の疲れをすでに感じ取っているAsaさんが、「なんとかしてあげたい。」と思っているその様子が伝わってくる。トレッキングも十五日目ともなると、朝から夜までの共同生活であるので、相手の思いがよく分るのである。今日の夕食のメニューを、忘れないために書いておく。
1. ご飯 二人で食べてちょうどよい量である。うまい。
2. みそ汁 ワカメのみそ汁。 うまい。
3. うどん 三人前の量。
4. ピザ 三〜四人でちょうどよい量。 とてもうまい。何が入っているのか知りたくなる。
5. ポップコーン 三〜四人前の量。
6. 野菜炒め 白菜と竹の子 。うまい。
7. 野菜 お湯を通したキャベツ。味付けがとてもよい。マヨネーズだけではない。
8. 野菜 ダイコン  ほどよいスパイスが効いている。
9. デザート 三種類の果物が入っている缶詰め。
10. 紅茶、コーヒー、ココア

 1. 2. 6. 7.は、そのおいしさが、日本で食べるのと、ほぼ同じか、少し上である。  「元気がでるようにと、たくさん作りました。」と、次から次へと運ばれてくるのである。

「日本語の まったくない毎日」
 「よその国に行ったら、その国の言葉を大事にする。」 私がいつも、心していることの一つである。今回は、幸いにも、私一人が日本人であることで、ネパールの言葉を主として生活することができた。日本語をまったく使わない生活体験は、私に、思いがけない貴重なことを、たくさん送り届けてくれたのである。

 その中でも、特に大きな贈りものが二つある。
 「我以外 皆我師也」  これは、宮本武蔵の著者でも有名である、作家の「吉川 英治」が、晩年、たどり着いた世界である。
「我以外 皆我師也」  わたし以外、人、物、大自然すべてが、このわたしの師である。
日本語を、まったく使わない生活と、毎日がテント生活という原始的な生活スタイルとで、私も、その入口近くまでたどり着いたような気がする。
「我以外 皆師也」 これが、一つめである。

 二つめは、「一人でいるより、二人でいた方が、はるかに、はるかに楽しい。」 
当たり前のことではあるが、かなり深い所で、それを理解できたような気がする。

 「日本語を使わない」ということは、つまり、ネパール語の会話をするということである。そうはいっても、たいした話が出来るわけではない。前にも書いたが、「gau」「村」と、この「村」にまつわる知識で、なんとか二、三十分。
それと、「babu」「父」  「ama」「母」  「dai」「兄」  「dede」「姉」  「bai」「弟」  「baini」「妹」  「sati」「友人」  「bauchha」「お子さん」 の言葉を使って、二、三十分、やっと話せるわけである。
私の発音が、種族によっては、そのまま届かない。また、うまく届いていかないから、おかしな言い方だが、その分だけ、会話がはずむのである。

相手が二人なら、「tapai ko ama ?」「あなた の お母さん?」 「そうです」とうなずいたら、今度はお母さんに向かって 「tapai ko bauchha ho?」 「あなた の お子さん ですか ?」
姉妹らしい二人なら、「tapai ko baini?」「あなた の 妹?」 首を横に振ったら、「oho sati ho 」「ああ そう ? 友達なのね。」
親しみのこもった、ここまでの会話だけで、その場が和んでくる。会う人、誰もが、みんないい人である。


第十八日
10月31日(金)
 Samdo 〜 Dharamsala ダラムサラ
「五色の旗  Janda ジャンダ(祈願の旗)」
 五色は、上の方からblue white red green yellow 青 白 赤 緑 黄と、どこでも、必ず、この順に並んでいる。

 「堅物な私を変容させてしまう五色のルンタ」と題して、Kangchenjunga カンチェンジュンガの紀行文の、最後の締めくくりに、私はこう書いている。
『Kangchenjungaの空(青)が、Kangchenjungaの風(白)が、Kangchenjungaの火(赤)が、Kangchenjungaの水(緑)が、そしてKangchenjungaの地(黄)が私を変容させてしまうのである。』

 この五色の色については、三十五日間にわたったカンチェンジュンガのトレッキングの時にも、私は、必要以上に、こだわり、考え続けたのである。「青は空であり、天である。白は風であり、愛である。そして、赤が火、緑が水、黄が大地である。」 これが最後にたどりついた、その時の、私の思い、考えであった。

 この「白は風であり、愛である」が、じつは、一頁に掲げた表題のベースになっているのである。「秀峰マナスルの白い風」は、この「白」と、この「風」からきている。 マザー・テレサが身にまとっていた、あの白衣の「白」の色は、もしかしたら、「愛」の象徴としてとらえようとした、昔の哲人の知恵が入っているのかも知れない

 今回、Manasluに登って、このKangchenjungaのときに見ぬいた、思い、考えを少しだけであるが、修正したくなってきている。

 神が私たちに与えてくれたものを、この高地に住んでいた昔の人が、澄んだ目で、純な心でとらえるとしたら、それは何であったか。昔の、高地に生きた彼らが「感謝」と「祈り」の中で見たものは、いったい何であったのか。

 「青は空、天であり、白は雲、風であり、赤は太陽、光であり、緑はジャングル、樹木であり、そして黄は、この大地である。」 Manasluでの、今の私は、このように五色をとらえようとしている。




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