「キッチンスタッフ、ポーターたちとの、毎日の、楽しい会話」 |
今日の行程は短く、歩行時間が四時間。早い時刻に Philim フィリム に着く。キッチンスタッフ、ポーター達が、いつものように私の座っている所にやって来る。私は、日に一つ、彼等に何か質問を用意することにしている。そうすることで、ほとんど英語も話さない彼等との、会話の機会を求めようとしているわけである。それが今日のように、昼過ぎのときもあるし、日によっては、夜になるときもある。ネパール語とカタコト英語で話す彼等との会話は、なかなか楽しい。
今日のテーマは「お祭り」である。「ネパールにはいくつか大きなお祭りがある。その中でも、前々から、私が興味を抱いているものに、Tehar ティハル と呼ばれるお祭りがある。このお祭りは、人間と深く関わって生きる動物たちのお祭りなのである。11月10日 カラス 11月11日 犬 11月12日 雌牛 11月13日 雄牛 11月14日 人間。日によって祝う動物が、それぞれ決まっている。四年前、Kangchenjunga カンチェンジュンガ に行ったとき、この雌牛のお祭りの日に、ある村を歩いていた。そこで、首飾りをしている雌牛を何頭も見た。マリーゴールドに似た花を、たくさん糸で通して、それを雌牛の首に巻いて祝うのである。土地の人は、この花を、Sayapatri と呼ぶ。」 ここまでのことは、私はすでによく知っていた。
「Tehar ティハルは、ネパール全土で行われているお祭りなのですか。」彼等に聞いてみた。今日、用意しておいた質問である。一人だけ彼らの中に、少しだけだが英語が話せる人がいる。私の質問の中味を、やっと理解したようだが、あまり興味を示さない。だんだん分ってきたのであるが、彼は、Shelpa シェルパ族で、Buddha ブッダにひれ伏し、Shelpa族の、大きなお祭りは、Teharではなく Losar ロサーなのである。
Tehar ティハルは、Tamangタマン族、Gurungグルン族 それにRaiライ族にとっては、大事な、そして大きなお祭りであるが、Shelpa族やBika族やTiebeten族には、たいした意味を持たない。つまり、種族によって、そのお祭りが、それぞれ違うのである。これは日本の国にも言えることで、考えてみれば当然のことである。
大きなお祭りと言った、この「大きな」の一文字が、ここでは不適切だったわけである。種族が、このネパールには64あるとも、96あるともいわれている。日本人の、ネパールに詳しい学者で、全部で102はあるという人さえいる。祭りが主となる宗教は、この国では最も理解しにくいものの一つである。
「部族」で強く印象に残っていることがある。五日目のArket Bazar でのこと。稲刈りを終えたばかりの田んぼにテントを張った、あそこでのことである。五、六人の子ども達が、私の所へ寄って来て、二、三十分遊んだリ、話し合ったりしたことがある。そのとき、一人の子が 「ガウ、ガウ」と言って、自分の「足」を指さす。何のことか分からないでいると、隣の子が、自分の「手の甲」にある「傷跡」を、もう片方の手で指さして、「ガウ、ガウ」と私に教えようとする。得意げな顔である。そしたら、二つか三つの歳の子までいっしょになって 「私は、ここにある。」 「私も、ここに ガウ がある。」と意気揚揚と、その「傷跡」を、この私に見せようとするのである。
誰が、この「傷」をつけたのか。 痛かったか。 「ガウ」とは何か。
聞いてはみるのだが、言葉が届いていかない。何日かたった後で気がついたことであるが、これは、もしかしたら、同じ部族であることの証として、親が、ナイフか何かで、その子が生まれたときにつけた「傷跡」かもしれない。
「ガウ」とは「Ghau」のことである。
Ghauのスペルは、分かっているので、インターネットで調べれば、すぐ分かる。しかし、今の私には、このまま、そっとしておきたい気がするのである。
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「あまりありがたくない、Chepala シェパラの歓迎」 |
岩の上で日向ぼっこをしている。足音が近づくと、すばやく逃げ去る。大きいのは、体長20センチをこえる。頭の方がかなり太っているので、トカゲのような、可愛らしさはない。ワニのようにも見えるが、ワニではない、トカゲの王様のようでもある。これが、歩いていくと、何十匹でもいる。
「dery meto chha」 「デレ ミト チャ」 と聞いてみたら 「私は食べないです。」と首を振りながら、そばにいた二人が言う。
「この国で、はじめて見た、美しい学校」
子ども達が遊んでいる。声に張りがあり、とにかく元気がよい。この声を聞いていると、日本の国の、私の少年の頃を思い出す。それに、どこの村についても、これはいえることだが、小学校にあがる前後の、小さな子どもがたくさんいる。老人の数が、少なく感じる。
「Where are you from ?」 突然、きれいな英語で、声をかけられる。いろいろ話をしているうちに分ったことだが、近くの学校の校長先生で、ぜひとも、私にその学校を見にきて欲しい、とのことである。「生徒さんは、まだいるのですか。」と聞いたとき、「帰らない生徒が九人います。」と言う。「帰らない生徒」の意味を確かめながら、校長先生に案内されて学校まで行く。「帰らない生徒」とは、「寄宿生」のことであった。
ネパールのどこかに、日本人の寄付で建てられた学校があることは知っていたが、その学校が、この Philim フィリムの村にある、この学校だったわけである。机も椅子も、日本で見るものとまったく変わりがない。これまで私は、ネパールで20〜30の学校を見てきたが、こんな立派な建物は見たことがない。おかしな言い方だが、ここだけが立派過ぎて、少し変な気もする。
Shree Buddha Secondari School
『この学校は、ローカル NGO・HACDC の支援要請を受けて、日本のボランティア団体AAFが日本、ネパール諸官庁の協力を得て建設されたものである。
建設にあたっては、日本政府より「草の根無償資金協力」の支援を、また数多くの日本の方々からの資金や資材の提供を受けることができました。ここに、ご支援いただいた方々に衷心より感謝の意を表し、その芳名を刻します。
私たちは、この学校建設がネパール・日本両国の友好と発展に寄与することと確信致します。』
2003年4月18日
そして、一文字一文字ていねいに、1455名の、日本人の苗字と名前が彫られているのである。大きく膨らんでくる感動を覚えながら、一人一人の名前を、とうとう数えてしまった。それは、学校の建物にも負けない、立派な作品でもあった。
「寄宿生に、なにか話をして欲しい。」と、懇願されたので、私が、裸足で学校に行った、少年期の話を、一時間ばかりして別れた。少年の一人は、涙を流しながら私の話しに聞き入っていた。
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日本人の寄付で建てられたフィリムの村の中学校。机、椅子は日本製で、日本の中学校で見るのと同じである。九人の寄宿生と校長先生。 |
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「またまた、Junkery ジュンケリ ほたるが飛ぶ。」 |
相変わらず、夜の星が見事である。テント近くを行ったり来たりしながら、そこに光を残していく。心の中にも、何かが灯った。 「mo dery dery khusi chha」 「モ デレ デレ クシ ツァ」 「私は とっても とっても 幸せ です」
シュラフの中で、眼を閉じても、今日も、何かが消えない。
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