Himaraya Trekking
  秀峰マナスルの白い風(その3) 綾部 一好
     
  秀峰マナスル(8,163メートル)ベースキャンプを訪ねて28日間の記録
平成20年(2008年)10月14日(火)〜11月10日(月)
 

第九日
10月22日(水)
 Jagat 〜 Saguleri サグレリ 〜 Philim フィリム
「キッチンスタッフ、ポーターたちとの、毎日の、楽しい会話」
 今日の行程は短く、歩行時間が四時間。早い時刻に Philim フィリム に着く。キッチンスタッフ、ポーター達が、いつものように私の座っている所にやって来る。私は、日に一つ、彼等に何か質問を用意することにしている。そうすることで、ほとんど英語も話さない彼等との、会話の機会を求めようとしているわけである。それが今日のように、昼過ぎのときもあるし、日によっては、夜になるときもある。ネパール語とカタコト英語で話す彼等との会話は、なかなか楽しい。

 今日のテーマは「お祭り」である。「ネパールにはいくつか大きなお祭りがある。その中でも、前々から、私が興味を抱いているものに、Tehar ティハル と呼ばれるお祭りがある。このお祭りは、人間と深く関わって生きる動物たちのお祭りなのである。11月10日 カラス  11月11日 犬  11月12日 雌牛  11月13日 雄牛  11月14日 人間。日によって祝う動物が、それぞれ決まっている。四年前、Kangchenjunga カンチェンジュンガ に行ったとき、この雌牛のお祭りの日に、ある村を歩いていた。そこで、首飾りをしている雌牛を何頭も見た。マリーゴールドに似た花を、たくさん糸で通して、それを雌牛の首に巻いて祝うのである。土地の人は、この花を、Sayapatri と呼ぶ。」 ここまでのことは、私はすでによく知っていた。

 「Tehar ティハルは、ネパール全土で行われているお祭りなのですか。」彼等に聞いてみた。今日、用意しておいた質問である。一人だけ彼らの中に、少しだけだが英語が話せる人がいる。私の質問の中味を、やっと理解したようだが、あまり興味を示さない。だんだん分ってきたのであるが、彼は、Shelpa シェルパ族で、Buddha ブッダにひれ伏し、Shelpa族の、大きなお祭りは、Teharではなく Losar ロサーなのである。

 Tehar ティハルは、Tamangタマン族、Gurungグルン族 それにRaiライ族にとっては、大事な、そして大きなお祭りであるが、Shelpa族やBika族やTiebeten族には、たいした意味を持たない。つまり、種族によって、そのお祭りが、それぞれ違うのである。これは日本の国にも言えることで、考えてみれば当然のことである。

 大きなお祭りと言った、この「大きな」の一文字が、ここでは不適切だったわけである。種族が、このネパールには64あるとも、96あるともいわれている。日本人の、ネパールに詳しい学者で、全部で102はあるという人さえいる。祭りが主となる宗教は、この国では最も理解しにくいものの一つである。

 「部族」で強く印象に残っていることがある。五日目のArket Bazar でのこと。稲刈りを終えたばかりの田んぼにテントを張った、あそこでのことである。五、六人の子ども達が、私の所へ寄って来て、二、三十分遊んだリ、話し合ったりしたことがある。そのとき、一人の子が 「ガウ、ガウ」と言って、自分の「足」を指さす。何のことか分からないでいると、隣の子が、自分の「手の甲」にある「傷跡」を、もう片方の手で指さして、「ガウ、ガウ」と私に教えようとする。得意げな顔である。そしたら、二つか三つの歳の子までいっしょになって 「私は、ここにある。」 「私も、ここに ガウ がある。」と意気揚揚と、その「傷跡」を、この私に見せようとするのである。

 誰が、この「傷」をつけたのか。 痛かったか。 「ガウ」とは何か。
聞いてはみるのだが、言葉が届いていかない。何日かたった後で気がついたことであるが、これは、もしかしたら、同じ部族であることの証として、親が、ナイフか何かで、その子が生まれたときにつけた「傷跡」かもしれない。

 「ガウ」とは「Ghau」のことである。
Ghauのスペルは、分かっているので、インターネットで調べれば、すぐ分かる。しかし、今の私には、このまま、そっとしておきたい気がするのである。

「あまりありがたくない、Chepala シェパラの歓迎」
 岩の上で日向ぼっこをしている。足音が近づくと、すばやく逃げ去る。大きいのは、体長20センチをこえる。頭の方がかなり太っているので、トカゲのような、可愛らしさはない。ワニのようにも見えるが、ワニではない、トカゲの王様のようでもある。これが、歩いていくと、何十匹でもいる。

 「dery  meto  chha」 「デレ  ミト   チャ」 と聞いてみたら 「私は食べないです。」と首を振りながら、そばにいた二人が言う。

       「この国で、はじめて見た、美しい学校」
 子ども達が遊んでいる。声に張りがあり、とにかく元気がよい。この声を聞いていると、日本の国の、私の少年の頃を思い出す。それに、どこの村についても、これはいえることだが、小学校にあがる前後の、小さな子どもがたくさんいる。老人の数が、少なく感じる。

 「Where  are  you  from ?」 突然、きれいな英語で、声をかけられる。いろいろ話をしているうちに分ったことだが、近くの学校の校長先生で、ぜひとも、私にその学校を見にきて欲しい、とのことである。「生徒さんは、まだいるのですか。」と聞いたとき、「帰らない生徒が九人います。」と言う。「帰らない生徒」の意味を確かめながら、校長先生に案内されて学校まで行く。「帰らない生徒」とは、「寄宿生」のことであった。
 
 ネパールのどこかに、日本人の寄付で建てられた学校があることは知っていたが、その学校が、この Philim フィリムの村にある、この学校だったわけである。机も椅子も、日本で見るものとまったく変わりがない。これまで私は、ネパールで20〜30の学校を見てきたが、こんな立派な建物は見たことがない。おかしな言い方だが、ここだけが立派過ぎて、少し変な気もする。

 Shree  Buddha  Secondari  School

 『この学校は、ローカル NGO・HACDC の支援要請を受けて、日本のボランティア団体AAFが日本、ネパール諸官庁の協力を得て建設されたものである。
 建設にあたっては、日本政府より「草の根無償資金協力」の支援を、また数多くの日本の方々からの資金や資材の提供を受けることができました。ここに、ご支援いただいた方々に衷心より感謝の意を表し、その芳名を刻します。
 私たちは、この学校建設がネパール・日本両国の友好と発展に寄与することと確信致します。』
2003年4月18日
 そして、一文字一文字ていねいに、1455名の、日本人の苗字と名前が彫られているのである。大きく膨らんでくる感動を覚えながら、一人一人の名前を、とうとう数えてしまった。それは、学校の建物にも負けない、立派な作品でもあった。

 「寄宿生に、なにか話をして欲しい。」と、懇願されたので、私が、裸足で学校に行った、少年期の話を、一時間ばかりして別れた。少年の一人は、涙を流しながら私の話しに聞き入っていた。


日本人の寄付で建てられたフィリムの村の中学校。机、椅子は日本製で、日本の中学校で見るのと同じである。九人の寄宿生と校長先生。
「またまた、Junkery ジュンケリ ほたるが飛ぶ。」
 相変わらず、夜の星が見事である。テント近くを行ったり来たりしながら、そこに光を残していく。心の中にも、何かが灯った。 「mo  dery  dery  khusi  chha」 「モ   デレ  デレ  クシ  ツァ」 「私は  とっても  とっても  幸せ   です」 
 シュラフの中で、眼を閉じても、今日も、何かが消えない。


第十日
10月23日(木)
 Philim 〜 Ekle Bhatti エクリバティ 〜 Chumjet チャムジェ 〜 Dyang ダン
「村に、家が二軒の chumjet チャムジェ」
 Ekle Bhatti エクリバティの集落を過ぎたところで、Ganesh Himal ガネッシュ ヒマール(7429メートル)方面への道が右手に分れる。対岸には大きな Chorten チョルテン(仏塔)が見える。この先の Burhi Gandaki ブリ・ガンダキは岸壁が切り立った廊下状(ゴルジュ状)になり幅は5メートル位の激流となる。この後、Chumjet チャムジェへの急登に取り付く。

 このChumje の村には、家が二軒しかない。ヒマラヤ山中にあって、やがて降る雪の中でも、自給自足の生活が続く。彼等の毎日は、カンニ(仏塔の門)をくぐり、Chorten チョルテンをあがめ、Tharcha タルチャ(経文を木版印刷した祈願のぼり)をめぐらしながらの、「感謝」と「祈り」の生活をするわけである。ここがジャングルではないにしても、厳しい生活に違いない。

 「どうして、こんなきびしい所を、わざわざ選んで、生活しているのか。」一瞬、そう思いもしたが、「ここより、もっとよい所が、他のどこにあるというのか。」という反問が、すぐその後に返ってくる。大事なことは、「どこに、住むか。」ではなく、「いかに、生きるか。」なのかも知れない。


第十一日
10月24日(金)
 Dyang 〜 Rana ラナ 〜 Ghap ガップ
「あと五日、このまま登り続けていくと、ヒマラヤ山脈 マナスル山郡の稜線に入る。」
 このヒマラヤ山脈は、およそ南北は200キロメートル〜300キロメートルだが、東西は2400キロメートルにも及ぶ。東は Brahmaputra ブラマプトラ川の大屈曲点から、西は Indus インダス川まで、長く長く連なっている。

 このヒマラヤ山脈の中核をなすのがネパール・ヒマラヤで、世界の8000メートル峰14座のうち8座が、このネパール・ヒマラヤにある。あまりにも大きすぎるので、この山郡は、普通 9〜10に分割して書いたり話したりしている。

 東の方から西へ、Kangchenjunga Region カンチェンジュンガ山郡、  Makalu Region マカルー山郡、  Khumbu Himai クーンブ・ヒマール、  Rolwaling Himal ロールワリン・ヒマール、  Jugal Himal ジュガール・ヒマール、  Lantang Himal ランタン・ヒマール、  Ganesh Himal ガネッシュ・ヒマール、  Manaslu Region マナスル山郡、  Annapurna Himal アンナプルナ・ヒマール、  Dhaulagiri Himal ダウラギリ・ヒマールと続いている。
 
 いよいよ明日、ヒマラヤ杉の樹林帯に入っていく。この天下の、ヒマラヤ山脈に足を踏み入れるのは、今回で、四回目となる。なんとこの私は、運のよい生き方をしてきていることか。

 あらためて、ここで感謝したい。丈夫な身体に私を生んでくれた、父と母に。そして、ここまでずっと私を支え続けてきた、有子に。このヒマラヤの大地にひれ伏して、「感謝」の意を表したいと思う。


ガップの村にむかう途中で会った、チベット人の母と子。私の知り得たずかなネパール語では、会話が進まなかったが、楽しいひとときを持った。顔つきにはそれが見られるが、しっかりしたすでに自立が始まっている子どもである。


第十二日
10月25日(土)
 Ghap 〜 Namrung ナムルー 〜 Lihi リー 〜 Sho ショ 〜 Lho ロー
「ここに咲く  深山の花は  地に適い  時期(とき)に適いて   ただに美し」
 GhapからNamrung ナムルーに向かう途中から、ヒマラヤ杉の樹林帯に入る。これは当然のことかも知れないが、ここにも、ここにしかない花がたくさん咲いている。さすがここまで来ると、見る花がどれも初めてである。それでも、遠くから見ると、青みがかった、アズマギクに似ている花もあるし、アキノキリンソウとそっくりの黄色の花も、いたるところに咲いている。

 しかし、よく見ると、色は鮮やかな純色だし、花もひときわ大きい。思わず足を止めてしまう、みごとな花が、このヒマラヤ山中にも、いくつもある。
 「 ここに咲く   深山の花は   地に適い   時期に適いて   ただに美し 」
 十五、六年前に詠んだ私の大好きな短歌が、ふっと出てきた。

 昨夜遅くに、高い所だけに雪が降ったようで、真っ白く雪化粧した山々が美しい。山に名前こそついていないが、どれも6000メートルは越える高さである。
 花も、木々の緑も、雪も、それぞれに美しい。


村の入り口にあるカンニ(仏塔門)とタルチャと呼ばれる、経文を木版印刷した、五色の祈願のぼり。

「頭上近くで、私を招く Badhar バーダル」
 Badhar バーダルと呼ぶ猿が、いたるところにいる。顔は真っ黒で、頭が真っ白。手足が細くてえらく長い。ヒマラヤではよく見る猿である。
 猿たちが遊んでいる、その樹木が、長いトンネルのようになっている。私は、今、その中を潜りぬけようとしているところである。
花もよし。木もよし。猿もよし。
神様がくれた生命体が、ここでもみごとに調和して、仲良く共存している。


第十三日
10月26日(日)
 Lho 〜 Hohsanho Gompa ホンサンホ・ゴンパ 〜 Sama サマ
「ぐるり、まわりが 7000メートル 8000メートルの山ばかり」
 「ウワー」と日本語の大きな声が出る。今度は「Wao」と大きな声で、英語が出てくる。これだけ大きな山を、同時に見せ付けられたら、手持ちの感嘆詞だけでは、いくら並べてもダメである。最後は、しかたなしに、ネパール語で、「モ  デレデレ  クシ  チャ 」

ゆっくり歩く。歩きながら何度も何度も見る。Nike Peak ナイケ・ピーク(マナスル北稜)   Manaslu 北峰(7157メートル)   それに Manaslu 主峰(8163メートル)   後ろを振り返れば Ganesh Himal ガネッシュ・ヒマール(7429メートル)も見える。

 Hohsanho Gompa ホンサンホ・ゴンパの手前では、 Peak 29(Ngadichuli ナディチュリ)(7871メートル)が見えたし、Sama サマでは Himalchuli ヒマルチュリ(7893メートル)が見えていた。

 Saguleri サグレリ近くで、何度となく見てきた Sringi Himal スリンギ・ヒマール(7187メートル)も、ここで見えるはずだが、手前の山が隠しているのか、今だけ、見えない。

 「 What's best  season ? 」 サーダーの Lakpaさんに聞いてみた。今の、十月と十一月が Best One とのこと。雪は降っても、雨の心配がまったくないそうだ。 Better One が六月と七月だそうだ。

 毎日が快晴で、夜は夜で、満天の星である。

サマ村のチョルテン(仏塔)とマニ車(中に経文が入った円筒状の仏具)。マナスル本峰へと続く山脈が後ろに見える。





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