Himaraya Trekking
  秀峰マナスルの白い風(その2) 綾部 一好
     
  秀峰マナスル(8,163メートル)ベースキャンプを訪ねて28日間の記録
平成20年(2008年)10月14日(火)〜11月10日(月)
 

第四日
10月17日(金)
 Kharikhatang 〜 Pade Chautara パデ・チョータラ 〜 Khanchok カンチョック
 〜 Koyapani コヤパニ
「Kharikhatang カリカタン の朝食」
 朝日に輝く Annapuruna Himal アンナプルナ ヒマール と Manaslu Himal マナスル ヒマールを、テントの中から同時に見ながらの、朝食である。山の好きな私に、これ以上の食事のスタイルは考えられない。Manaslu マナスル。 この山には、やはり 「秀峰」という名を付けてみたくなる。
                                      
「Koyapani コヤパニ の村の子が、一人残らずやって来る。」
 村の近くの道路沿いに、テントを張る。トイレ用の小さいテントから、キッチン用の大きいテントと、あわせて四つ張った。子ども達にとっては、歩いていく外国人は時たま見るだろうが、テントまで張って、村に留まるのは、よほど珍しいと見える。遠くの子でも五分もあればここまでやって来られるとあって、「あれっ」と思って気がつくと、また子どもの数が増えている。

 何やかや、私が話し掛けるものだから、どの子も興味を覚え、持ち前の好奇心とで、薄暗くなっても、私のところから離れようとはしない。にこにこしながらいろんな話をして帰っていった。ネパールの、この子ども達の眼が、どの子もじつに美しい。ヒマラヤに来るたびに感じていることである。

 『高地に生きる子どもは、どうして、眼も、心も美しいのか。』 『食事のための薪拾い、食事のしたく等、食べることのために、この子ども達は日に十時間は働く。人と人を結ぶ。人と人が関わる。その最も基本的な食事に、多くの時間を費やしていることと、この子ども達の眼の美しさとは、深い相関関係があるような気がする。』

 これは、Kangchenjunga カンチェンジュンガ に登ったときの、メモの一部である。
                                      

制服を着て登校する子ども達。五年制の小学校は四歳で一年に入学する。このあとの五年制が、日本の中学校、高等学校にあたる。しかし十年間、学校に行ける生徒は少なく、家事労働のため、途中で止める子が多い。

第五日
10月18日(土)
 Koyapani 〜 Arughat Bazar アルガート・バザール 〜 Arket Bazar アルケット・バザール
「山間の村は、どこも稲刈りの真っ最中」
 稲の実った黄金色が、見事な季節である。平らな所はもとより、緩やかな傾斜は段々畑にして、いたるところで稲作が盛んである。「私が見るかぎり」という条件付であるが、村が山の中にあれば、住民の主食は、この米とトウモロコシのようである。

 三日目のテント場は、昨日か、今日の午前中に稲刈りを終えたばかりの、水気の少ない畑の中である。稲のにおいが、まだかなり強く残っている。わたしのテントのすぐ隣で、家族そろって、稲の脱穀をしている。のどかな、一枚の、本物の油絵にもなりそうな風景である。


昨日の夕方、おそくまで遊んでいた子ども達の何人かが、朝早くに、私と話がしたくて遊びにやってくる。コヤパニの村の子ども達である。どの子も、好奇心に富むその眼が美しい。

「ポーターもキッチンスタッフも、歌が大好きである。」
 いままで一緒になって、長いこと歌っていたキッチンスタッフの三人が、夕食の準備で立ち去った。終わるかなと思っていたらその後、十人のポーターだけで、一時間を越えて、歌い興じていた。荷物運びさえ終えればポーターは暇である。脱穀の終わったばかりの稲の上に、思い思いに、寝そべったり座ったりして、長い時間歌いあっていた。今日のところは、歌は二曲しか出てこないようである。誰かがちょっと口ずさむと、誰かがすぐそれに乗る。気がつくと、いつのまにか全員で、声を合わせているのである。

 お互い仲がとてもよい。みんな底抜けに明るい。そして、誰もが、今の生活に満足して、生きている。少なくとも、そんな顔つきをしているように見える。そういえば、今回のトレッキング計画段階のとき、担当の方から頂いたものの中に、こんな一節があったのを思い出していた。

 『ご存知のとおり、ネパールは世界の最貧国の一つですから、おしなべて国民は貧しい生活をしています。貧富の差も大きく豊かなのは一握りの人たちです。 
 しかし、貧しいとはいえ平和な国情と、多くの国民が山間部において自給自足に近い生活をしていますので、数字では表せないある種の幸福が存在することも事実です。在日ネパール大使も「貧しいが、幸福感が一杯の国」と言っておられます。
 こんな住民との触れ合いもトレッキングの魅力の一つです。』


アルガート・バザールの村へ行く途中で、百一歳になるというおばあさんにあう。よい記念になりそうなので、ゆっくり会話をしながら、八枚も写真をとらしてもらう。これはその中での私の自信作の一枚である。


アルガート・バザールの村。ヒマラヤ山脈の中とはいえ、低地の村のいくつかは、身につけるもの、はきものにも裕福さが見える。ネパール人は赤色のものを好んで身につける。右の太い木は、となりにもう一本あって二本の対として植えられる。片方がバル、もう片方がディパルと呼ばれ、オス、メスを象徴させ、ネパール人は大事に守り育てる木である。


アルケット・バザールの村では、どこでも稲刈りのまっさい中である。稲刈りを終えたばかりの田んぼの中にテントをはらしてもらう。手や足の傷を見せながら私に、ガウGhauを教えてくれた子ども達である。


第六日
10月19日(日)
 Arket Bazar 〜 Soti Khola ソティ・コーラ 〜 Lapubesi ラプベシ
「ネパール語と日本語は、文体がまったく同じである。」
 今回のトレッキングのための事前学習で、かなり力を入れたものが、四つある。
1. ネパール語の学習
2. 英会話の学習
3. 村の名前とその位置関係をとらえる
4. 名前のついている山の位置関係をとらえる
 ネパール語の学習は、その書物も少ないので苦労した。

   1.  yo      gau      ko      name      ke      ho  ?
       ヨ      ガウ       コ      ナーム      ケ      ホ
       ここの   村        の      名前は      何      ですか

   2.  yo      tenro     bachha   ho  ?
       ヨ      テンロ     バッチャ    ホ
       この子は あなたの    お子さん   ですか

   3.  tapai    ko       baini  ?
       タパイン  コ        バイニ
       あなた   の        妹

   4.  khana   dery      meto     chha
       カナ     デライ     ミト       チャ
       食事は   とても     おいしい    です

   5.  pet     bary      bayo
       ペット    バリ      バヨ
       お腹が   いっぱい   です

   6.  yeslai   nepali      ma        ke        banchha  ?
       エスライ  ネパーリ     マ         ケ        バンチャ
       これを   ネパール語    で        何と       いいますか  

   7.  mo     dery        dery        khusi      chha
       モ      デレ        デレ         クシ       チャ
       私は    とても       とても        幸せ       です   
  
   8.  bestary   banuhos
       ビスタリ    バンノス 
       もう少しゆっくり   話してください

 これ等は、私が村の人たちの中に、初めて入っていくときによく使う、最も得意としている会話文である。

 形容詞、形容動詞や副詞の使い方も、じつによく似ているし、文の骨格をなす主語や述語の位置は、日本語の文章と、まったく同じである。

「ネパール人の多くは、かっての日本人によく似ていて、はにかみ屋である。」
 村の人は、挨拶はよくするが、はにかみやで、こちらの中にずけずけ入ってくることは、まずしない。十人で例えれば、三人が、むこうが先に、「namasti」「ナマステ」と挨拶してくる。七人は、こちらが先だ。「ナマステ」と言えば、必ず「ナマステ」と返事が返ってくる。その後、向こうから何か話してくることは、まずない。心の交流を求めるとしたら、こちらの方から、ゆっくり、やわらかく、そして親しみを込めて質問調の言葉を投げかけるところから始めていくことになる。

 発音等で言葉がうまく通じないので、分かり合うまでには、けっこう時間がかかる。それに同じ言葉が、何回も行ったり来たりしているうちに、むこうも、そしてこちらも、ひとりでに手が動き、身体が動いてくる。そうすることで、親しみ、和みがいつのまにか生まれ、ふくらんでくるから不思議である。うまく通じ合えない会話も、なかなかいいものである。


第七日
10月20日(月)
 Lapubesi 〜 Machha Khola マチャ・コーラ 〜 Tatopani タトパニ
「流れ落ちてくる滝が、なんと温かいお湯」
 Tatopani タトパニの村が近づくにつれ、Burhi Gandaki River ブリ・ガンダキ河の両岸は、急に切り立つ岸壁となってくる。テント場近くに、この崖から、あまり大きくはないが二本の滝が、流れ落ちている。片方は、ごく普通の冷たい山の水である。ところが、もう一方の滝は、ちょうど良い温度の、お湯なのである。

 Tato タト とは「熱い」という意味である。Pani パニ とは「水」のことである。つまり、お湯のことを、ネパールでは Tatopani タトパニ という。そして、この村の名も、同じ Tatopani である。

 若いポーター達、キッチンスタッフはもとより、Dek ディクさんも Lakpa ラクパさんも、上半身裸になって、頭から威勢よく、このお湯をかぶっている。気持よさそうである。私は大事をとって、顔だけ、ていねいに洗った。


第八日
10月21日(火)
 Tatopani 〜 Dobhan ドバン 〜 Jagat ジャガット
「Jagat ジャガットの学校で、びっくりしたこと。」
 校庭の真ん中を歩いて学校の中に入った。校庭といっても、高いネットが張ってあるバレーコートが一面あるだけの広場が、この学校の運動場である。このコートの片面、奥の方に、テントを二つ張った。その後、小さいとはいえ、一つ穴を掘って、さらにトイレ用のテントを張るのを見て、びっくりした。ここは学校の、運動場の、その中なのである。

 教室は二教室しかないが、奥の一つが、台所になったらしく、机、椅子をはじの方に寄せ、キッチンスタッフが食材を並べ、ナベや釜を取り出してはじめている。これには、またまたびっくりしてしまった。

 どのように交渉してそうなったのか、日本語が話せれば、Lakpa さんに聞いてみたいところである。ほんとに、このネパールでは、驚かされることが多い。一段落して、まわりが少しずつ見えてきたとき、まだなんとなく妙な気がする。台所となった教室の、隣の、ガラスのない一教室をそっと覗いてみた。これには、本当にびっくりして、声すら出なかった。中で、子供たちが授業をしているのである。

 ネパールという国を、きちんと理解することは、なかなか大変なことで、時間と眼力の、そのどちらも必要である。

「私が、算数の授業をすることになってしまう。」
 学校に、私が興味を抱いていることを、すでに、よく知っている Lakpa さんが、事前に話しておいたのか、この後しばらくして、先生が私のところへ来る。かなりしっかりとした英語で、「生徒を残してあるので、この生徒のために、あなたの授業をして欲しい。」という。突然の申し出に驚きながらも、こんなことは、この私にとっては願ってもないことでもあるので、喜んで受けることにした。

 「どんなことを、話せばよろしいのですか。」そのときの答えが、また、ネパール調である。「あなたの授業です。あなたが、生徒の前に立ったとき、話したくなる、その話が、それが best です。」「どの位の時間、話しましょうか。」 この返事には、おそれいった。「日が暮れるまで、暗くなるまで、たくさん、たくさん teach してください。ネパールの子ども達は、暗くなっても、なんでも見えます。」

 カメラを取りに行きながら、何をテーマにするか、あれやこれ思い巡らした。先生が何か子供たちに話したらしく、きちんと座って、みんな緊張して、私を待っていた。後ろの出口から、子供たちの間を、さくようにして黒板の方へゆっくり歩いた。子ども達みんなの、私を追う、視線が・・・。忘れもしない。私がはじめて教壇に立った、二十代の、あの時の、あの子ども達の、あの視線と、それは、まったく同じものであった。

 黒板に書き残されていた数字を使って、算数の授業をした後、今度は逆に、私が生徒になることにした。私の覚えている、数字の、読み方、発音を、子ども達になおしてもらうのである。このとっさの思いつきは、なかなかのアイディアであった。どの子も喜んで、しかも、しんけんに教えてくれた。「そうじゃない、こうだ、こうだよ・・・」身をせり出して、私の発音を直そうとする子もいた。 子ども達の、輝いた、美しい眼も、たっぷりと見ることができた。

「エク」  「ドゥイ」  「ツィン」  「チャール」  「パンチ」
「ツァ」  「サト」   「アト」    「ノウ」     「ダス」
「エガラ」 「バーラ」 「テラ」    「チョウダ」  「パンドゥラ」
「ソラ」  「サッタラ」 「アタラ」  「ウンナイス」  「ヴィス」

「21」の「エッカイス」までしか、私は覚えていない。とはいえ、ここまでで、十分すぎる数であった。子ども達の、その心の真ん中に、何かが届いただろうか。


算数の授業をしたジャガットの村の小学校。穴こそあいてはいないが、壁面はぼろぼろに傷んでいる。窓ガラスは一枚もない。それでも子ども達は生き生きとしていて、どの子も子どもらしさをしっかり持ちそなえているのが印象深く残っている。



「テントの中にイナゴが一匹、テントの上にホタルが一匹。」
 今夜も満天の星である。初日から六日間、連日満天の星である。もう長いこと、この星を見ている。知っている星座を見つけ出そうとしているが、星の数が多すぎて、私の力では無理である。天の川だけで我慢しようとしていたら、星が流れた。流れ星がまた見られるかと思って、願い事を考えながら、その方を見ていたら、先ほど流れた星が、流れた先のほうで、また光り出した。

 その流れた先の近くまで行ってみると、なんと流れたその星は、蛍であった。ヒマラヤ山脈で、初めて見るホタルである。今日の一日は、少し「ツキ」過ぎているようである。





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