Himaraya Trekking
  秀峰マナスルの白い風(その1) 綾部 一好
     
  秀峰マナスル(8,163メートル)ベースキャンプを訪ねて28日間の記録
平成20年(2008年)10月14日(火)〜11月10日(月)
 



マナスル(左)、右の尖峰はピナクル


「はじめに」
 「秀峰Manaslu マナスル(8,163メートル)ベースキャンプを訪ねて28日間」のトレッキング。
 この計画、学習等の準備を本格的に始めたのが、ちょうど二年前の2006年10月である。途中、休むこともなく、日々、密度の濃い準備を重ねた二年間であった。

 十九歳の時から始まった私の登山歴史も、幸いなことに、一度も途切れることなく今日に至り、五十四年目を迎えた。「私の登山史の、最後にふさわしく、最後を飾る大きな山は、秀峰Manaslu マナスルである。」そう思い込み始めて、かれこれ十数年が経過する。

 当初、何人かの人と、仲間を組んで登るつもりでいた。しかし、このManaslu マナスルは、誰でもがすぐとびつける普通の山ではなかったらしい。Everest エベレスト(8848メートル) Lhotse ローツェ(8516メートル) Cho Oyu チョウ オユー(8201メートル)といった、人気の高い山のある、Khmbu Himal クーンブ ヒマールとも違い、Manaslu マナスルのすぐ隣にある、誰でも気軽に入れる Annapurna Himal アンナプルナ ヒマールとも、その趣を異にしていた。このManaslu マナスルは、最低二十八日の日数が必要な山であったわけである。

 出発予定の二ヶ月前になっても、参加希望の仲間が一人も出てこなかった。最終的に、私一人だけで、このトレッキングを組むことを決めたのが、一ヶ月前の、九月である。

 「日本人は、この私一人だけである。」
 「日本語を、二十八日間、まったく喋らない生活」 
今回のトレッキングが、予想をはるかに越えて、大きな、貴重な体験の連続であったことは、すべて、この生活スタイルに起因する。
体験のいくつかは、あまりにも貴重すぎて、別世界のことのようにも思えてくる。 

 ひとつ例をあげれば、Jagatジャガットという名の村でこんなことがあった。この村の小学校で、私が先生となって、三十分、算数の授業をしたのである。私の顔や体を、食い入るように見続けていた、三十数名の生徒の、あの輝いた眼が、未だに脳裏から離れない。

 「日本人は、この私だけで、あとは全部ネパールの人である。」というスタイルは、このスタイルでしか運び得ない、幸運を、いくつもいくつも生んだのである。

 「神のなされることは、みな、時に適って美しい・・・」  
旧約聖書の「伝道の書」の中にでてくる一節である。まさしく、その通りであることを、知らされ続けた二十八日間でもあった。

 一歩一歩、ヒマラヤの山中に、この私の、二本の足を踏み下ろしていくときの、あの「充足の極致」「感動の極限」を、私は、そのヒマラヤの真っただ中で次のように綴ったことがある。

 『ベーゴマで遊んだ、あの友に、もしも会っていなかったとしたら、私は、今、ここに立ってはいない。中学一年のとき、あの先生に、もしも出会っていなかったら、私は、この道を今歩いていない。高校受験のあのとき、張り合って勉強したあの彼と、友達でなかったとしたら、私は、今、ここには来ていない。「ともしび」と名のつく、あの喫茶店で、夜遅くまで話し興じたあの仲間達に、もしも会っていなかったとしたら、私は、間違いなく、このヒマラヤ山脈には、足を踏み入れることはできなかった。そしてまた、同僚の、あの先生に、もしもあの時巡り合っていなかったとしたら、この道には、たどり着くことなどできはしなかった。』

 『今、私が二本の足で立っている、このエベレストにつながる道を、逆にたどって、今まで歩いて来た道の方へ降りていくとしたら、そこに見るものは、私が今までに出会えた、その時々の、すべての人なのである。私が、過去に出会えた人の、誰一人を欠いても、歩いてきた道が、このヒマラヤの道にはつながらない。つまり、私が、過去に会った人、過去に出会えた人、過去に巡り合えた人の、全ての人が、あの8848メートルのエベレストにつながる、この道にたどり着くためには、どうしても必要な人であったのである。』

 ヒマラヤ山脈の中で書きとめておいた、その時の胸中の思いを、八年の時を経て、今ていねいに読み返している。「感謝」の思いだけが膨らんできて、涙がひとりでにあふれてくる。私は、なんとまれな、なんとまれにみる果報者であることか。

 その時々に、メモしておいたものを、ていねいに整理して、力いっぱい、その貴重な感動を言葉にしてみようと思う。すでにつかみ得たネパールの言葉は、私にとっては非常に大切なものであるので、横文字で、そのまま生かしていきたいと思う。

第一日
10月14日(火)
 Narita Airport 成田空港 〜 Bangkok Airport バンコク空港
「登山史の最後にくる Manaslu マナスル (8,163メートル)」
 Manaslu Region マナスル山郡は、Burhi Gandaki River ブリ・ガンダキ河と、Marsyandi River マルシャンディ河の二つの大河に挟まれた山郡で、Gorkha Himal ゴルカ・ヒマールとも呼ばれている。この山郡で唯一の8000メートル峰である盟主 Manaslu(8163メートル)と、Peak 29(7871メートル)、Himalchuli ヒマルチュリ(7893メートル)の3坐は、マナスル三山として親しまれている。

 今、私が試みようとしているコースは、古都Gorkha ゴルカをスタートし、Burhi Gandaki河を最上流へと詰め、Larkya La ラルキャ峠(5135メートル)を越えて、Marsyandi河へと下るルートである。

 地図上の水平距離で、約210キロメートルある。山の上り下りの距離など、測るわけにはいかないが、ことによると、歩く道のりは、埼玉の毛呂山町の自宅から、新潟、秋田を通って、青森の、もう少し向うまで行く距離かもしれない。テントを担いで、二十八日をかけて、これから、歩き登ろうとしているわけである。2004年の三十五日を要した Kangchenjunga カンチェンジュンガ(8586メートル)に匹敵する、かなり大掛かりな、背伸びをした計画である。何せ、それが決行されるときには、私は満七十二歳になっている。

 計画、学習等の準備に、ここまで二年を費やしてきた。それでもまだ、しておかなければならないことが山ほどある。十月中旬に予定している出発まで、あとわずか、九ヶ月足らずしか残っていない。
                                      
 九ヶ月前の 日記より

第二日
10月15日(水)
 Bangkok Airport 〜 Kathmandu Airport カトマンドゥ空港
「私の、どこに・・・こんな力が」
 引っ込み思案で、気が小さく、それに泣き虫、弱虫であった、私の少年期を、まるごと知り尽くしていたはずの私の父母は、今ここに、こうしている私を、目を皿のようにして、あの天国から見ているはずである。どんな驚きをしていることだろう。天国でも腰を抜かすことなどあるのだろうか。そしてまた、私の父母として、どんな思いで、この私を心配し、見守ってくれているのだろうか。

 こんな私を、今、こうして見ることができるとは、この私自身ですら、それこそ、今の今まで信じられなかったことである。
 確かに、この三,四日は、それなりに苦慮し続けてきたが、今日の朝の、そう決めたときの私の心は、見事なほど明るく、しかも澄み切っていた。決断して、その意思表示の電話を、じつにさわやかな声で、たった今 したところである。この記念すべき日になるはずの、今日の日付は、2008年、平成二十年八月十日である。あと何年生きていられるかは分らないが、「この日に、私がしたこと」は、これから先の、この私を、さらに変革させていく大きな、大きな原動力になっていくことだけは間違いない。

 この山の計画が、とてつもなく大きくて、しかも難題をたくさん抱え込んだものであるにしても、私と同じ思いの人が、人の多いこの関東地区なら、二人や三人は必ずいるはずだと、これまでずっと思い込んでいた。
そして、
すでに八月に入ってしまった。
誰も、いない。
私と、同じ思いをしている人が、たしか昨年は、ひとりか二人いた。
しかし、
今年は、誰もいない。
ともに力を合わせて、いっしょに挑戦をしていきたかったはずの、仲間が誰一人いない。
私、
ただ一人である。

ヒマラヤ山脈。Manaslu マナスル。8163メートル。
Cho Oyu チョウ オユウ、 Dhaulagiri ダウラギリに次いで、世界で八番目の高さの山である。

 「一人で、私は登ります。一人でも、参加しますので、この私を、後押ししてください。」
 高い山を登りすぎて、かすかにしか聞きとれなくなっている、大事な右の方の耳に、右手に持った受話器が、しっかりとあてられている。そして、それよりも、さらにしっかりと、左の手には、「1956年、昭和三十一年三月十日(土曜日)の、毎日新聞」が握られている。
 その一面には、大きな字で 「三たび マナスルに挑む」 「あす カトマンズを出発」と書かれた 写真入りの記事がある。
 この 1956年は、私が大学に入った年でもある。

 一人だけの、海外の旅なら、いつかは、「観光」という形ですることになるかもしれないとは、予想はしていたが、まさか天下のヒマラヤ山脈、Manaslu マナスルに、一人で、一人だけで挑戦することになるとは、まったく思いもしないことであった。
私のどこに、
こんな血潮が流れていたのか。

 出発は、十月十四日あたりになるようである。ネパールで一番大きなお祭りである「ダサイン」が、ちょうどこの時期、十一日から始まるので、ことによると出発が、もう一日か二日後になるかもしれない。
 とはいえ、あと二ヶ月後のことである。することが、山のようにあるので、しばらくは、この「自分史」からも離れなければならない。四ヶ月後には、また、この「自分史」のもとに帰ってくることになるわけであるが、その時のタイトルが、「マナスル紀行文」であればよいがなあと、今思っている。
1. ネパール語の学習
2. 英会話の学習
3. 計画の再点検
4. 荷物の準備
5. 現地との交渉
6. フィルムの調達
7. 全行程の、すべての地形、地名の学習
8. 足を、鍛えつづける
9. 紀行文の構想を描く
  孫たち 子ども達 兄弟姉妹 親戚   すべて、ことが穏やかに流れていくことだけを祈りつつ ・・・
                                      
 二ヶ月前の 日記より

第三日
10月16日(木)
 Kathmandu 〜 Gorkha ゴルカ 〜 Kharikhatang カリカタン
「マナスル初登頂物語」
 ブリ・ガンダキとマルシャンディの二つの大きな河に囲まれた、主峰マナスル (8163メートル)、ピーク29 (7871メートル)、ヒマルチュリ (7893メートル)を通称マナスル三山という。

 1956年(昭和三十一年)、三たび(第一次 昭和二十八年、第二次 昭和二十九年)マナスルに挑む槙 有恒(まき ゆうこう/ありつね、1894−1989)以下十二名の隊員は三月十一日、二十名のシェルパと四百名余のポーターと共にカトマンドゥを出発した。当時のアプローチはカトマンドゥからゴルカを経由してその先のアルガートまで、すべて歩いて山越えした。

 マナスルBC目前のサマ村では、それまでの調査遠征において住民による入山拒否にあっている。神様が住むと信ずる住民による反発で、その交渉結果によっては遠征そのものへの影響が出るという、今では想像もつかない困難も待ち構えていた。当時は国家事業ともいうべき国民の注目をあびてのヒマラヤ遠征だった。企業、団体を始め一般国民からの寄付金も2600万円を越したと報道にある。(毎日新聞)

 3/29 (3850メートル) BC設営、   4/7 (5200メートル) C1、   4/12 (5600メートル) C2、   4/16 (6200メートル) C3、  4/21 (6600メートル) C4、   5/5 (7300メートル) C5、   5/7 (7800メートル) C6 と設営、五月九日十二時三十分に今西 寿雄隊員、ガルツェン・シェルパが初登頂、第二次登頂は十一日に加藤 喜一郎、日下田 実 両隊員が頂上に立った。日本人による八千メートル峰の初登頂である。

 登頂成功のニュースはBCからメール・ランナーによって十七日朝、ブリ・ガンダキ河中流のジャガットへ、駐留軍の無線でカトマンドゥに打電、十八日午前一時二十五分ようやく日本の新聞社に朗報が到着した。登頂写真はカトマンドゥ、ニューデリー、ボンベイ(ムンバイ)と送られ、ボンベイから無線伝送、二十八日にようやく新聞に掲載された。
                                      

「豪華な出迎え」
 朝、約束の時間の少し前、六時二十分にホテルのロビーに行く。サーダーのLakpa Sona ラクパ ソナさんが、すでに待っていた。Cosmo コスモ(ネパール現地の旅行会社)での最終打ち合わせで、Sharder サーダー Lakpa Sona ラクパ ソナさん、Cook クック Asa アサさん、Sherpa シェルパー Dek ディックさんがついてくれることだけは知っていた。

 Lakpa ラクパさんに連れられて、ホテルに止めてある専用車に乗り込む。私が最後らしく、私が乗るとすぐに車が動き出した。車に乗り込んでいる人の数が多いので、他のトレッキングのグループと同乗して、Gorkha ゴルカに向かうのかなと思った。

 しばらくたってから、Lakpa ラクパさんに、今回のトレッキングで私の世話をしてくれる人は何人いるのか、ていねいな英語で聞いてみた。「この車に乗っている全部の人が、綾部さんのお世話をします。」ネパール調の英語が返ってくる。まさかと思い、聞き間違えたのかもしれないな、と今一度聞いてみた。「ここにいる全員で、綾部さんの、今回のトレッキングを成功させます。」

 Cook の Asa アサさん。それに Kitchin Staff が三人。
 Sherpa の Dek ディックさん。それに Potor ポーターが十人。

ネパールでのトレッキングの度ごとに、これは感じてきたことであるが、ネパール人のする「ていねいさ」は、日本で日常とらえている、私たちの「ていねいさ」と大きく異なるようである。

 運転手の二人は Gorkha ゴルカまでだが、私一人に、この十六人のネパール人がついたのである。この、ネパール人だけの十六人が、今日から、朝に晩に、毎日手助けしてくれることになったわけである。数の多さに、一瞬、驚き、喜びもしたが、申し訳なく思う「感謝」の気持ちの方が、あとまでずっと残った。
                                      

ゴルカに到着。これからいよいよトレッキングが始まる。出発を前にして、荷造りもほぼ終え、十人のポーター達と三人のキッチンスタッフの背負う荷物が同じ重さになるように、シェルパのDekディクさんが配慮している。正面億の赤い車がカトマンドゥから私を含め十六人を乗せてきた専用車。

「なつかしくさえ思えた、第一回目のアクシデント」
 Kathmandu カトマンドゥから Gorkha ゴルカに入るには、チベット国境沿いの大きな峠を一つ越えていく。持っている二つの地図には、どちらも載っていないので、この峠の大きさは分らない。2000メートル位の高さか、それとも3000メートルに近い標高なのか。

 予定では五時間で着くことになっているが、この峠のおかげで、約二倍の九時間半かかった。行き交う車のほとんどは、どれもカラフルな色をした、様々な機種の大型トラックである。山ほど荷を積んだ大型二台が、この道幅ですれ違うのは、かなりの運転技術がいる。

 この勾配のある道を、三,四十分ほどは順調に走ったが、その後止まって、一時間動かない。入れ替りながら、ポーターたちが外に出て行く。大型トラックが脱輪したらしい。さらにしばらくして、車は動いたが、事故車の所で、片側交互通行しているためか、五分も走ったかと思うと、二十分止まる。そんな繰り返しで、やっとその事故現場を通り過ぎ、やれやれと思ったら、また止まった。今度は一台、エンストしたらしい。

 ネパールでのアクシデントには、私は慣れている。来るはずのヘリコプターが、いくら待っても来ないで、三日も待った経験もあるし、でこぼこの山道を、バスにゆられて、二十七時間も乗り続けた、貴重な経験もしている。

 曲がりくねった道を見下ろすと、登る車と降りる車、どちらも止まったままの大型車が延々とつながっている。見事な景色でさえある。
 一台や二台の車の事故ぐらいでは、私はなんとも思わない。むしろなつかしくさえ思う。運転席の窓に、木の枝を、はでにさしてあるのが事故車で、「私の車は、動けません。」という他車へのお知らせである。数えてもみなかったが、こんな車が、この峠には五,六台はあったように思う。

 Cosmo コスモの社長さんが、私を出迎えたときの話を思い出し、この九時間半を、私はうきうきしながら楽しんだ。
 『ネパールでのお時間を、ゆっくりお楽しみください。ネパールは、何事も ビスタール(ゆっくり)の国です。時間どおり、予定通りに物事が運ばない場合も多々ありますが、お日様と共のネパール生活を御理解の上、お楽しみください。  ネパールにようこそ。』
                                      
「幸先のよい、Kharikhatang カリカタンのテント設営」
 Kathmandu カトマンドゥ とPokhara ポカラ の中間に位置する Gorkha ゴルカは、1769年ゴルカ王朝が建ち、現在のビレンドラ国王の祖先の地として有名な古都である。ヒンドゥ寺院の参道を登っていくと三十分ほどでレンガ建てのお寺に着く。さらに三十分、こんどは下っていくと第一回目のテント設営地である Kharikhatang カリカタン に着く。

 大きな谷に正対してテントを張る。前方、大きな山脈が左の方から右の方へと、180度連なっている。そのちょうど真ん中あたりを境にして、大きな山脈のその上に、さらに、二つの白い雪の山脈が輝いている。左半分が Annapuruna Himal アンナプルナ ヒマール (8091メートル)。そして、その右半分にあるのが、これから登ろうとしている Manaslu Himal マナスル ヒマール (8163メートル)である。

 Lakpa さん。よくぞ、この地を選んでくれました。これ以上の、テント設営地が他にあるだろうか。初め良ければすべて良しというが、これからがたのしみである。
                                      

最初のテント設営地のカリカタン。このテントの中からアンナプルナヒマールとマナスルヒマールを同時に見ながら食事したわけである。四張りあるテントの右端の小さいのがトイレ用のテントである。




Copyright (C) 2009 FUJI INTERNATl0NAL TRAVEL SERVICE, LTD. All Rights Reserved.