「マナスル初登頂物語」 |
ブリ・ガンダキとマルシャンディの二つの大きな河に囲まれた、主峰マナスル (8163メートル)、ピーク29 (7871メートル)、ヒマルチュリ (7893メートル)を通称マナスル三山という。
1956年(昭和三十一年)、三たび(第一次 昭和二十八年、第二次 昭和二十九年)マナスルに挑む槙 有恒(まき ゆうこう/ありつね、1894−1989)以下十二名の隊員は三月十一日、二十名のシェルパと四百名余のポーターと共にカトマンドゥを出発した。当時のアプローチはカトマンドゥからゴルカを経由してその先のアルガートまで、すべて歩いて山越えした。
マナスルBC目前のサマ村では、それまでの調査遠征において住民による入山拒否にあっている。神様が住むと信ずる住民による反発で、その交渉結果によっては遠征そのものへの影響が出るという、今では想像もつかない困難も待ち構えていた。当時は国家事業ともいうべき国民の注目をあびてのヒマラヤ遠征だった。企業、団体を始め一般国民からの寄付金も2600万円を越したと報道にある。(毎日新聞)
3/29 (3850メートル) BC設営、 4/7 (5200メートル) C1、 4/12 (5600メートル) C2、 4/16 (6200メートル) C3、 4/21 (6600メートル) C4、 5/5 (7300メートル) C5、 5/7 (7800メートル) C6 と設営、五月九日十二時三十分に今西 寿雄隊員、ガルツェン・シェルパが初登頂、第二次登頂は十一日に加藤 喜一郎、日下田 実 両隊員が頂上に立った。日本人による八千メートル峰の初登頂である。
登頂成功のニュースはBCからメール・ランナーによって十七日朝、ブリ・ガンダキ河中流のジャガットへ、駐留軍の無線でカトマンドゥに打電、十八日午前一時二十五分ようやく日本の新聞社に朗報が到着した。登頂写真はカトマンドゥ、ニューデリー、ボンベイ(ムンバイ)と送られ、ボンベイから無線伝送、二十八日にようやく新聞に掲載された。
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「豪華な出迎え」 |
朝、約束の時間の少し前、六時二十分にホテルのロビーに行く。サーダーのLakpa Sona ラクパ ソナさんが、すでに待っていた。Cosmo コスモ(ネパール現地の旅行会社)での最終打ち合わせで、Sharder サーダー Lakpa Sona ラクパ ソナさん、Cook クック Asa アサさん、Sherpa シェルパー Dek ディックさんがついてくれることだけは知っていた。
Lakpa ラクパさんに連れられて、ホテルに止めてある専用車に乗り込む。私が最後らしく、私が乗るとすぐに車が動き出した。車に乗り込んでいる人の数が多いので、他のトレッキングのグループと同乗して、Gorkha ゴルカに向かうのかなと思った。
しばらくたってから、Lakpa ラクパさんに、今回のトレッキングで私の世話をしてくれる人は何人いるのか、ていねいな英語で聞いてみた。「この車に乗っている全部の人が、綾部さんのお世話をします。」ネパール調の英語が返ってくる。まさかと思い、聞き間違えたのかもしれないな、と今一度聞いてみた。「ここにいる全員で、綾部さんの、今回のトレッキングを成功させます。」
Cook の Asa アサさん。それに Kitchin Staff が三人。
Sherpa の Dek ディックさん。それに Potor ポーターが十人。
ネパールでのトレッキングの度ごとに、これは感じてきたことであるが、ネパール人のする「ていねいさ」は、日本で日常とらえている、私たちの「ていねいさ」と大きく異なるようである。
運転手の二人は Gorkha ゴルカまでだが、私一人に、この十六人のネパール人がついたのである。この、ネパール人だけの十六人が、今日から、朝に晩に、毎日手助けしてくれることになったわけである。数の多さに、一瞬、驚き、喜びもしたが、申し訳なく思う「感謝」の気持ちの方が、あとまでずっと残った。
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ゴルカに到着。これからいよいよトレッキングが始まる。出発を前にして、荷造りもほぼ終え、十人のポーター達と三人のキッチンスタッフの背負う荷物が同じ重さになるように、シェルパのDekディクさんが配慮している。正面億の赤い車がカトマンドゥから私を含め十六人を乗せてきた専用車。
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「なつかしくさえ思えた、第一回目のアクシデント」 |
Kathmandu カトマンドゥから Gorkha ゴルカに入るには、チベット国境沿いの大きな峠を一つ越えていく。持っている二つの地図には、どちらも載っていないので、この峠の大きさは分らない。2000メートル位の高さか、それとも3000メートルに近い標高なのか。
予定では五時間で着くことになっているが、この峠のおかげで、約二倍の九時間半かかった。行き交う車のほとんどは、どれもカラフルな色をした、様々な機種の大型トラックである。山ほど荷を積んだ大型二台が、この道幅ですれ違うのは、かなりの運転技術がいる。
この勾配のある道を、三,四十分ほどは順調に走ったが、その後止まって、一時間動かない。入れ替りながら、ポーターたちが外に出て行く。大型トラックが脱輪したらしい。さらにしばらくして、車は動いたが、事故車の所で、片側交互通行しているためか、五分も走ったかと思うと、二十分止まる。そんな繰り返しで、やっとその事故現場を通り過ぎ、やれやれと思ったら、また止まった。今度は一台、エンストしたらしい。
ネパールでのアクシデントには、私は慣れている。来るはずのヘリコプターが、いくら待っても来ないで、三日も待った経験もあるし、でこぼこの山道を、バスにゆられて、二十七時間も乗り続けた、貴重な経験もしている。
曲がりくねった道を見下ろすと、登る車と降りる車、どちらも止まったままの大型車が延々とつながっている。見事な景色でさえある。
一台や二台の車の事故ぐらいでは、私はなんとも思わない。むしろなつかしくさえ思う。運転席の窓に、木の枝を、はでにさしてあるのが事故車で、「私の車は、動けません。」という他車へのお知らせである。数えてもみなかったが、こんな車が、この峠には五,六台はあったように思う。
Cosmo コスモの社長さんが、私を出迎えたときの話を思い出し、この九時間半を、私はうきうきしながら楽しんだ。
『ネパールでのお時間を、ゆっくりお楽しみください。ネパールは、何事も ビスタール(ゆっくり)の国です。時間どおり、予定通りに物事が運ばない場合も多々ありますが、お日様と共のネパール生活を御理解の上、お楽しみください。 ネパールにようこそ。』
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「幸先のよい、Kharikhatang カリカタンのテント設営」 |
Kathmandu カトマンドゥ とPokhara ポカラ の中間に位置する Gorkha ゴルカは、1769年ゴルカ王朝が建ち、現在のビレンドラ国王の祖先の地として有名な古都である。ヒンドゥ寺院の参道を登っていくと三十分ほどでレンガ建てのお寺に着く。さらに三十分、こんどは下っていくと第一回目のテント設営地である Kharikhatang カリカタン に着く。
大きな谷に正対してテントを張る。前方、大きな山脈が左の方から右の方へと、180度連なっている。そのちょうど真ん中あたりを境にして、大きな山脈のその上に、さらに、二つの白い雪の山脈が輝いている。左半分が Annapuruna Himal アンナプルナ ヒマール (8091メートル)。そして、その右半分にあるのが、これから登ろうとしている Manaslu Himal マナスル ヒマール (8163メートル)である。
Lakpa さん。よくぞ、この地を選んでくれました。これ以上の、テント設営地が他にあるだろうか。初め良ければすべて良しというが、これからがたのしみである。
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最初のテント設営地のカリカタン。このテントの中からアンナプルナヒマールとマナスルヒマールを同時に見ながら食事したわけである。四張りあるテントの右端の小さいのがトイレ用のテントである。
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